行き先は集合場所東京駅日本橋口で添乗員より知らされ、指定された長野新幹線に乗車。
【初日】
・新幹線あさま;東京駅→軽井沢駅
・バス;姥捨・棚田→穂高神社→アルプス街道平湯→飛騨高山→ホテル・アソシエ高山(泊)
【二日目】
・飛騨高山朝市散策→飛騨古川散策→天領酒造見学→下呂温泉 下呂観光ホテル(泊)
【三日目】
・下呂温泉→道の駅平成→恵那峡(昼食)→杵原学校授業→諏訪大社下社春宮→軽井沢駅
・新幹線あさま;軽井沢駅→東京駅
この植物園の始まりは1684年に5代将軍綱吉の白山御殿跡地に作られた「小石川御薬園」。明治10年に旧東京帝大の附属植物園となる。敷地内は台地・傾斜地・低湿地・遊水池と変化に富み その特徴を活かした配置で内外の植物が植樹されている。2時間ほどの専門家の案内であったが 四季毎に訪れたい植物園である。
大嘗宮見学の前に東京駅丸の内から御幸通り散策。
恒例の(多)資材OB懇親会の前に 東京駅丸の内街と皇居から駅までの御幸通りがオリンピックを控え すっかり整備された様子を撮影。40年前に新丸ビル8階の総研勤務時代の面影はない。当時のまま残っているビルは東京海上ビルと郵船ビルのみ。
新橋駅集合。→SL広場(C11形SL、愛の像と泉の像、乙女と盲導犬の像、愛のライオン像)→烏森神社(カラフルな御朱印で有名)→D51機関車の動輪&鉄道唱歌の碑(鉄道発祥の地にふさわしい記念碑)→日テレ大時計(宮崎駿デザインによる世界最大級のからくり時計)→カレッタ汐留46F展望スペース(月島、お台場方面が一望)→旧新橋停車場鉄道歴史展示室(開業当時の駅舎基礎石の遺構など)。→金春通り煉瓦遺構の碑(日本最初のレンガ街の名残)。今回の散策マップ。
始めて湯島聖堂を散策した。
上上の油絵は日立の本社ビル(お茶ビル)を 森ビルに売却する前に 湯島聖堂から親爺が描いたものである。
ビル完成時は 日立の何代目の社長か知らないが 損得、原価低減、パワハラしか知らないサラリーマン官僚主義から脱却出来ないちんけなA級戦犯社長の一人であった。
原宿の東郷神社水交社にて東京多友会懇親会開催(40名参加)。
原宿駅周辺の竹下通り等を3年ぶりに散策。
相変わらずの賑わいであったが、海外からのお客さんが目立つ。
旧甲州街道の小仏峠越えの予定であったが🌀19号大雨で街道シャットダウン。
代わりに景信山登山に切替え。
武蔵松山城跡は比企丘陵の先端に築かれた山城で標高60メートルの北武蔵屈指の堅城とされ、土塁や空堀は良好状態で残されており、平成20年に比企城館跡群の一つとして国の史跡に指定。武州と上州を結ぶ戦略上の要地として絶えず争奪戦が繰り広げられ、武田信玄、上杉謙信、前田利家らも攻城に参加した記録あり。
吉見百穴は約1400年前の古墳時代後期の横穴墓群の遺跡で、岩山の斜面に219基もの穴が開いており穴内の台座に棺桶を安置したと言われ、このような遺跡では日本一の規模で1923年に国の遺跡に指定された。また、岩山の下方にはヒカゲゴケが自生しており国の天然記念物になっています。
また、岩山の地下には太平洋戦争中に中島飛行機が地下軍需工場を建設するため直径3メートルのトンネルが碁盤の目状に掘られており、そばを流れる市野川が蛇行して流れているため軍需工場の前面に用地を確保するため流路を西側へ移動する河川改修も行われたとのこと。
岩室観音堂は810~824年に建立されたと言われ1200年以上の歴史があり、弘法大師空海が岩をくり抜いて高さ36.4センチの観音像を彫刻して岩窟に納め名称を岩室山と号したと言われています。室町時代に扇谷上杉の武将上田氏が建てた武蔵松山城の城主が代々信仰護持したが秀吉の関東出陣の時の松山城落城と同時にすべてが焼失し、現在のお堂は江戸時代寛文年間(1661~1672)に再建されたもので比企西国三十三か所の三番目の札所となっています。京都の清水寺の観音堂と同様の“懸造り様式”という江戸時代では珍しい建築方法によるもので吉見町指定の文化財になっています。
下細谷耕地のコスモス畑は休耕地を利用した広大な敷地7.7ヘクタールに750万本のコスモスが植栽されており、今年は19回目のコスモス祭りが26日。