2、母;足立禮子ものがたり

 誕生地は 現在の栃木市都賀町合戦場 1914年(大正4年)11月2日生まれ兎年。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 写真は大正6年5月18日,1歳7月の時。5人姉兄のバッチである。


合戦場小学校(淑慎学舎)

  上の写真は 昭和10年に取壊しが決まり その記念に写したのであろう「淑慎学舎残骨」と祖父のアルバムに張り付けてあった。

 

 明治 6年 淑慎学舎(現・栃木市立合戦場小学校)と称し合戦場宿に設立。設立場所は現在の合戦場公民館の地。祖父は 明治10年ごろ入学したのであろう。 

 

 祖父儀平をはじめ 小平本家の家族は 全員この小学校に通った。

 

 


卒業28年目の栃女クラス会(1970/12/1)

 昭和7年3月栃女卒の同級(2組)会名簿。30名が載っている。約半分が 県外に居住。この名簿は昭和45年のものと思われる。昭和45年12月1日に上野精養軒にてクラス会を開催していることが母の日記に残されている。同級生の一人に5代目宝井馬琴に嫁いだ大岩絹子さんいて、午前中に日暮里駅近くの千駄木の自宅訪問。日記に「自宅は屋敷街で仲々と豊かに暮らし、御主人(馬琴)も如才なく歓待サービスをして貰う」「クラス会は午後三時頃まで歓談。又 馬琴の家には戻り 五時頃までダベル。又 会うことを約束し、主人の車で帰宅」。

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母礼子女子高名簿.pdf
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 家業も安定し 何の不自由なしに幼児、少女時代を過ごしたと思われる。栃木の女学校を卒業し、上京して花嫁修業の為   山脇高等女学校に遊学。胸に付けているバッチは山脇の校章。

   

   向かって左の〝ハートに富士〟は、山脇学園の校章 で、ずばり富士の姿だ。

 

   1903年、山脇玄・房子夫妻 によって創立された120年の歴史を持つ女学校だが、 房子は校章に込めた想いとして、富士山の尊さを次の 3点にあるとして、自分の心の理想とするよう説いた という。  

『秀峰三姿』

                ●   いつどこから見ても変わらぬ姿

               ●   清らで穢れなき心

               ●   感情を抑える克己心と穏やかで平和な姿  

 

  はて さて、一世紀以上も経った今、現代っ子たちは この理想の〝三姿〟をどう受け止めているだろうか。

                      (『秀峰三姿』は岡野記より引用)


嫁入り前の写真


母 礼子の「私の歴史」

 昭和53年頃に書き残し母の礼子の「私の歴史」が出て来た。この一文を下記する。大正から昭和初期にかけた小平家の様子が判る。曾祖母チヨは 息子の儀平、浪平から見ると「慈母」「賢母」。嫁のノブから見ると「とんでもない姑」「鬼(義)母」、夫からは「愚妻」。孫の礼子から見ると「権力者」「烈女」「烈婦」と映ったのであろう。


 一寒村に生まれた田舎の育ちの娘である。寒村と雖も日光街道即ち例幣使街道の宿場町であり、純農村ではなく 仲々イキな雰囲気のあることを覚えている。

 

 姉一人、兄三人の末娘であり、多くの召使いに囲まれ、村ではお大尽様の娘であった。生家は村で旧家であり、村の中心的な存在であることは 小さい時から気付いていた。

 

 併し 決して素直な娘でもなく 又 さりとて穏やかなお嬢さんでもなく、時々小さい時から皮肉屋のところもあり、権力家の祖母には時々皮肉を飛ばし、憎まれっ子でもあった。

 

 母ノブは明治の10年代に生まれ、当時の宇都宮高女卒であるから、此の寒村ではインテリであってしかるべき乍ら、烈女と称する祖母の影に隠れ、女中同様に働き続き、要領の悪さもあって、いつも嫁としては哀れな存在であった。

 

 これも明治、大正にかけ親孝行のヒズミ(歪)か 父からも 祖母は「賢母」で 妻は「愚妻」であることを強調したからである。私も父、祖母には 子供には珍しく敬語を使い、母には女中同然の言葉を使っていた覚えがある。

 

 当然 母の立場はいつもオロオロとして、時には悲しみの為か、情けないのか、納戸でしばしば円ろんでいたのか、泣いていたのか、私には判断つかなかった。姉は祖母にべったり付き添い、私は母に同情らしき行動をとったが、何分子供こと、家のことは分らない。

 

 父は明治の初期、一高に入り、弟浪平も一高生だったから寒村には珍らしい存在であった。四男勲も東大での理学博士である。烈女祖母チヨ(千代)の権力は益々大きな存在になったのであろう。

 多少 山師的な祖父は 多くの山に手を出し、49歳で他界し、7人の子女を残して世を去ったのであるから、祖母も烈婦と言われたのも必然である。

  

 当時 母は大変な名家、家柄に嫁ついできたものの、屋敷は全て抵当、祖父の残した莫大な借金の利子返済に、数年掛かったと言うから、父が長男なるが故に、大変な存在だったのであろう。

 

 夢多き、多感な一高を退学、借金返しに銀行員になって百八十度の人生に変わったのだから、父も悲劇の人かも知れない。医師になるべく、独逸協会、一高、東大そしてドイツ留学を約束されたのに、地方の一銀行員になった父の心情は張り裂ける想いと、父の口からは聴いたことはないが、良く祖母を通して、父ばかりに責任を負わしていたことを嘆いていた。そして浪平ばかりノホホンとさせたから、父に詫びているようであった。                ー以上ー

 

 


明治35年頃の小平家の様子

   
 
<明治38年12月25日;小平惣八(源重之)15年祭>
と裏面に書いてあります。
 この写真は小平家の様子を知る上で大変貴重なもの。浪平も働き出して5年。弟妹への学資・医療費は浪平が負担。漸やく家業も安定して時期と思われ、色々なことが推測されます。
・曾祖父の小平惣八(源重之)は明治23年12月25日 多額の負債を残して49歳病没。
・婿入前の実家大澤家からは誰も参列していない。商人大澤家は凋落し、既に絶縁していたかも。
・祖父儀平は銀行員になったとは言え 未だ下っ端。年末の忙しい時期に休暇を取れる立場にない。
信子(ノブ)と再婚したが(明治35年)、2度目の出産で長女千重子が生まれたばかり。
想いは先妻(チカ)ばかり。仮面夫婦の誕生か?夫婦揃って儀平・信子の笑顔の写真は殆どない。
・浪平は東京電灯(現;東電)の送電技師に転職したばかりで超多忙。代役で妻の也笑(ヤエ)を
東京から参列。浪平は翌年暮れ(明治39年)日立鉱山に転職。
・男は3人映っているが 後列真ん中は病弱で居候している3男陳平。4男勲は熊本で学生。
あとは(留吉)は使用人。徳太郎は不詳。
・家業は全てをGod Mather(チヨ)が取り仕切っている。嫁の信子は要領の悪さも手伝って女中
の如くこき使われた。
・(セツ)は(チヨ)の長姉。合戦場より10㌔北の金崎宿に住んでいた。2代前に分家した
「高砂屋」に嫁に行ったが、離婚して医者の五十嵐と再婚。彼女が2男である浪平を養子に呉と
再三要求するも、浪平が頑として拒否(晃南日記に詳しく載っている)。
・(シゲ)は惣八の連れ子。明治元年生。惣八は古河の造り酒屋佐藤家に婿入りしたが、
佐藤家とは折合が悪かったのか強制離婚。娘2人を連れて小平家に入婿する。
 佐藤家の現在は平成に入って倒産。小平家と佐藤家の明治・大正時代の関わり合いがどうなって
いたのか知りたいところ。
尚(シゲ)は日立鉱山時代 浪平の個人秘書的な役割をしていて手紙の代筆等を家政婦的仕事担当。


母・礼子の両親

 この写真は知二伯父の結婚式で撮影されたもの。


 

     

      

  

この写真は昭和13年秋、新婚間もない両親宅を訪問した時のスナップ写真。

 現在の日立市助川町。当時は多賀郡助川町。翌年近隣が合併して日立市となる。両姉は日立病院で生まれているので、この住所には3年位住んでいたと思われる。

 

 


 

 祖父儀平は漢詩の達人。号は「桂堂」。この4年後の昭和19年74歳で病没。


祖母


母・礼子の兄姉

 写真は昭和12年に撮影した両親と家族の写真でる。結婚を控え東京で撮影したものと思われる。


祖母の実家 新井家との関係

 下記封書は昭和56年12月12日付け祖母ノブの実家の当主(新井卓逸氏)から父宛に届いたものである。母礼子の喪中連絡の返礼である。小平家は新井家とはあまり付き合いが無かった様である。それは曾祖母・烈女チヨの存在、後妻、夫との価値観の相違、要領の悪さ等々。



哲三伯父

 哲三伯父は 母と気の合った兄妹である。連れの伯母は旧姓早瀬さんと言って壬生町で育ち、栃木の女学校で母と同級生。戦後は国立に住んでいた。

 

 伯父は 出征中家族に宛てた手紙・絵葉書を「戦線随筆」と題して記録を残している。中々の文才、絵心もあり とりわけ動植物等自然に対する観察眼、愛情には素晴らしいものがある。

<読後感>

  ① 「戦線随筆」は素晴らしい本である。哲三の人間味がそのまま出ている。絵が得意で記録を残す事が得意で大叔父浪平に似ている。血筋は争えない。

戦線で妻と子供達への手紙が唯一の楽しみであった。子供の似顔絵が非常に上手である。眼が澄んでいて上品な顔である。

驚いたのは湿地帯で本当に大蛇に出会った。最初は何か解らずに流木と思い掴んだら大蛇!!

虎が村に出没して虎退治をした。50発銃を撃ったので56発は当たった。虎は山奥へ逃げた。

敗戦で状況が一変した。この辺の状況が生々しく描かれている。中国軍司令官に死を覚悟で会見に臨んだ。軍馬10頭を中国軍に没集されたがその馬たちが10頭逃げて帰って来た。馬たちは日本軍を愛した。中国軍がまた引き取りに来たので馬たちはまたしょげて帰った。

人間よりも賢い名犬はな号。犬は何でも理解している。伯父が部隊の指揮者である事も解っている。命がけで自分の主人を守る。

最後にカルモチン。これで雀を生け捕りにしてみんなで食べた。良い事に気付かれた。人柄が文章の全面に出ている。忠君愛国の人であった。今の人達にはこういう人物が理解できないかも知れない。日本軍が最強の軍であったことが良く解ります。日本人は大和魂を持ち何時でも国のために命を惜しまず。

 ⑦最高指揮官を命じられた時指揮官室の隣はクーニャン美女の部屋になっていた。前任者の贈り物と言う。「帰れ」と言ったら娘は泣き崩れた。家が貧しくおカネの借金だけ残る。そこでたっぷりごホービを与え娘を新品のまま使用せずに帰した。娘は大喜び、兵士たちからも村人たちからも立派な行動に称賛された。私なら「据膳喰わぬは男の恥」と喜んで頂いた。 


 

知二一家


子供達の誕生の様子      (親爺の日記より)


長女 万里(昭和14年2月22日);誕生地:日立市日立総合病院

2月22日(水)(晴朗);

・昨日の氷雨に引き換え天気はすっかり回復し 寒気厳しく霜が真っ白の降りている。昨晩から幾分様子が変であった礼子は朝から腹部に鈍痛を覚える由、床に就いている。

 

・出勤後、家より呼び出しがあり、八時頃帰宅。裕兄さんは病院の方を頼み、荷物を取り纏め(之は一月も前から準備してあった)。ミヤ(注;お手伝いさん)と三人にて病院に趣く。車窓から見る神峯の連山は昨日の雪ですっかり真っ白になり朝日照り輝き一際美し。

 

・八時半 産室に入る。早くて今晩とのこと。後を託して出勤す。合戦場に入院の由 電報す。

 

・五時退勤。夕食中 合戦場の母上突然来て下さる。粗末な夕食を差し上げ、母上二人と三人にて七時頃病院に行く。薬局で待機す。幸い病室も空き、六号室を陣取り、色々と話し合って待つ。待つこともなく、十時十五分頃大きな呱々の声が産室があがる。母上が女の子らしいと伝えてくる。暫くして子供を見る。良く顔立ちの整った子で、安産にて母子とも無事、安心す。

 

・合戦場の母上に一晩付き添って頂くことにし、二人で帰宅(十一時)。ぐっすり休む。

 

・帰途 足利と合戦場に安産の旨 架電。

 

・身長:49㎝、体重:2830㌘、頭囲:32㎝

 

2月23日(木) 晴

 ・昼食の時、病院に行く。元気で経過も良好なり。

・合戦場の母上は病院から会瀬に廻り裕兄さんを見舞う。熱も下がり恢復されてきた由。

・夕食後病院に行く。子供が大きな声で泣き出している。真っ赤な顔で力いっぱい力んでいる。元気なり。

・手紙を書き儒二時ごろ就寝。

2月24日(金) 晴

・母上二人でに行き見舞いして下さる。

・夕方会館に裕兄さんを見舞う。今日は熱も下がり元気で居られた。

 

・病院に廻る。子供は乳を含ませていた。もうすっかり子供の愛を感じてきた様子なり。昨日は陣痛と出産の苦しみに二度と出産はしたくないと、子供のない人を羨んでいたが、今日はがらりと変わって 母の喜びを語っていた。

 

 (弥生町、龍岡町、松戸、浅草橋に通知す)

・合戦場の母上は九時の汽車にて東京を廻り帰郷さる。本日より裕兄さん出勤の由。(中略)

 

2月26日(日)

・出産の通知を兄姉達に出す。

・病院に行き、子供の写真を撮る。風強く埃を巻き上げて、物凄し。

2月27日(月)

・風相変わらず強し。朝の気温は零度以下に下がる。(中略)

・夕食後病院に見舞いに行く。子供おとなしく休んでいる。入浴して子供の名前を定め紙に書く。”万里”とす。”天下統一万里同風”であり、マリアのマリでもある。健やかに育つ様に祈る。

 

2月28日(火)

・合戦場、弥生町、足利の亀山に手紙を書く。

 

3月1,2日

・子供熱あり、夜は7.4度位あり。

 

3月3日(金)

・病院に行く。子供の熱も下がり元気なり。

・弥生町より結構な寝台を送られる。早速組み立ててみる。

 

3月4日(土)

・夜明けより久し振りに降雨あり。埃も収まって気持ち良し。しとしと降る春雨の感が強い。

・万里 朝より再び熱が出る。礼子原因不明の熱に心配す。医者が明答せず、大分憤慨した由。夕方小児科の東さんに診て貰い咽喉の炎症とか、一安心する。扁桃腺類似の症状にて熱も直ぐには下がらぬらしい。可哀想な事をした。熱さえ下がれば今日退院する積もりでいたので一層がっかりした。

 

3月5日(日)

・(中略)昼食後 病院に出掛ける。未だ熱が下がらぬが、食欲もあり元気なり。裕兄さんも出ておられた。(中略)

3月6日(月)

・万里の熱依然として八度以上あり。併し幸い食欲もあり消化も良く、医者も問題なし由 申している。(中略)

3月7日(火)

・昨夜に引き続き雨、良きお湿りなり。家の井戸も漸く水の出が良くなるも濁る。弁天池も少し水が貯まてきた。松戸からお祝い到着。初衣なり。亀山様、弥生町より見舞い状。

・夕食後病院に行く。万里の熱は本日も引き続き八度以上とあり。元気なり。

 

3月8日(水)

・礼子益々神経過敏になり亢奮してくる。可哀想だが仕方なし。

・裕兄さんと打合せ。医者も万里の方は心配なき由申しているので 明日退院させる様に話を決める。熱は相変わらず八度以上あり。

 

3月9日

・正午少し前  礼子退院す。万里 少し熱あるも心配なし。礼子は相変わらず神経過敏で困る。風邪気味にて早く休む。夜中 子供に起こされる。

3月10日

・万里の熱未だすっかり下がらず。礼子も依然睡眠不足なり。

3月11日

・朝から南風吹く。雨を交え温暖なり。九時の汽車にて合戦場の母上 来助。

・夜は種々話をして寝る。万里の熱も平熱に下がり愁眉を開く。夜は度々目覚めて泣く。風雨を交え猛烈な降り方なり。障子の隙間より吹き込む。

3月12日(日);晴れ

・朝より雨も晴れ上がり南風は暖かい空気を送り桜の咲く様な陽気なり。(中略)

・夜は”二十一日の祝い”の打合せをする。

3月13日(月);晴れ、寒し

・万里の病気全快して湯を浴びせる。病院より看護婦が廻って来てくれる。万里機嫌悪く泣き続く。

・夜は二人の母を囲んで炬燵でで話す。明日の祝い事等打合せ。礼子も身体回復して分娩後初めて風呂に入る。

3月14日(火)晴れ

・万里の”二十一日の祝い”をす。常盤館にて料理の心配をして貰う。裕兄さんを招き、家々同志五人で水入らずの夕飯をとる。大神宮に御神酒をあげ燈明をいけ、万里の生長安かれと祈る。

食後は裕兄さん等と炬燵を囲んで、子供の頃の思い出話に話は尽きず。十時過ぎ迄話をして愉快であった。

・万里は一日中おとなしく休んでいた。

3月15日(水)

・合戦場の母上は午の汽車で帰られる。

3月19日(日)

・(前略)母を送って水戸まで同行。幸い天気も良いので観梅することにする。中川楼によりて鰻に舌鼓を打ち、公園に趣く。花は見頃を過ぎたれど人出も割に少なく却って静かで落ち着いて良し。三時半の汽車にて送る。(後略)

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次女 早苗(昭和15年6月10日);誕生地:日立市日立総合病院

6月10日(月)(晴れ);

・礼子入院し 再度診て貰う事にす。(中略)

病院に九時頃行く。礼子産気づき、母と再び病院に行く。待つこともなく分娩終わる。安産なり。女児にて幾分残念なり。

・体重2,600㌘、身長50㎝、10:05pm出生。

6月11日(火);(本日は電力制限により休日)

・朝早く 足利と佐藤さんに電話す。合戦場と弥生町に電報す。

・九時頃病院に行く。・午後は万里子の子守をす。未だ慣れず、母親を恋しがり始末がつかず。入浴す。知二兄より祝電。

6月12日(水);

・病院に行く。礼子 女児とて愚痴をこぼす。(中略)

6月13日(木);

・万里を風呂に入れ、むずかるままに一緒に休む。髪をむしり、眉毛を引っ張り、中々うるさい。

6月14日(金)(晴れ);(社長 工場視察に来場)(中略)

・病院に行く。礼子九度近く熱あり。原因不明なり。解毒の為のカルシウム注射のためか。

6月15日(土)(晴れ);(社長 工場視察に来場)

・万里 今朝より嘔吐 又 工合悪し。万里は日中数回下痢をする。その割には元気なり。

・病院に行く。礼子熱が下がる。子供も元気なり。生まれた時節をとり、早苗と命名することにす。

・足利に母を来助するよう架電。原より祝い物届く。松戸、合戦場より祝状。

6月16日(日)(晴れ);

・合戦場の母 病院に行く。

・午後二時の汽車にて母来助。(中略)

・病院に行く。合戦場に母は裕兄さんのところに行く。

6月18日(火)晴れ;

・合戦場の母は十二時の汽車にて帰場される。

・礼子退院す。万里の喜び。早苗は今後暫く病院に通うこととなる。

6月23日(火)(晴れ);

・早苗は 毎日病院通いなり。早苗の記念の通帳を作る。

6月29日(土);

・礼子 大部子守に疲れ 悲鳴を上げて当たり散らす。軽く受け流して置く。

 


長男 英一(昭和16年10月10日);日立市多賀;桜川社宅

 10月10日

・前日に引続き快晴にて風も秋らしい。朝三時頃 禮子腹が痛み出し起こされる。やがて陣痛がとわかり 夜明けを待って五時頃 河原子の産婆を迎えに行く。自転車に乗ると手が痛いくらいであった。帰りは海から太陽が昇って来た。

 

・出産まで時間がありそうなので工場に出勤す。十時頃家に帰り、女中(注;名前はセツ)が「又 お嬢ちゃんです!」と言った時は少々がっかりす。もうすっかり片づけられて 産婆も帰り 礼子も元気であった。やがて”男の子”ですよと言われ急に嬉しくなる。そう言えば先程から家中陽気な感じがしたのは 天気のせいばかりではなかった。目方は八百

 

出産時刻は8時半、体重3.75×800=3,000㌘)

 

・足利と合戦場に通知す。

久米君の妻君来訪。夜は万里と一緒に休む,中々うるさい。

 

10月16日

・長男は”英一”と名付く。呼び易く書き易い名でしかも意味の深遠(?)なものを選んだわけである。出生届を出す。

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 (親爺は やはり男児誕生は嬉しかったのであろう。それ以上に嬉しかったのはお袋と思う。女中セツに「又 お嬢ちゃんです!と言え」と指示したのはお袋と思う。)

 


次男;健二(昭和18年4月はじめ 不詳)

 昭和18年の日記行方不明。出生後3日後早逝(死産扱い)。但し遺骨は足利の法楽寺に埋葬。母より”ケンジ”と言う名前は聞いていたが ”健二”と言う漢字は母の遺書で知る。


三女 百合(昭和19年9月15日);誕生地;日立市多賀桜川社宅

<昭和19年日記抜粋>

(1月31日):義父儀平死去

(2月19日):哲三兄 23日より市川85連隊に入隊する由。

(2月27日);礼子次第に良くなり食欲も出て元気になる。

(2月29日):夕食時 知二兄来宅。明日より多賀工場にて暫く実習され

      る由。 

(3月09日):万里腹を壊し医者騒ぎ。疫痢ではないらしい。

(3月15日):知二兄 多賀工場の出張終り、栃木に帰る。

(3月16日):礼子万里を連れて合戦場に父の五十日祭に出掛ける。

      七時半に乗る予定が切符が買えず 十時で出発せる由。

(3月18日):一日中炬燵で早苗、英一と相手に遊ぶ。夕方 礼子を駅に

      迎えんとしたら電報来る。明日朝一番にて帰宅の由。

(3月19日):朝から左側胸痛む。息を吸っても痛む。肋間神経痛か。

      一日辛い思いをす。退勤の汽車で礼子帰る。汽車もバスも 

      混む。家で子供達喜ぶ。

(3月31日):母トク死去。

(4月05日):礼子日立病院に行く。予定日9/15。順調の由。

(4月09日):万里食当たり腹痛。村木先生に診て貰う。

(4月24日):武子の縁談あり。岐部君の話し結構と思う。

(5月06日):午後英一を連れて大甕を経由して久慈浜、河原子迄歩く。

      天気良く、麦も伸び気分良し。

(6月03日):三人の子供を連れて鮎川橋まで歩き、汽車を見たり 豚や

      アヒルを見る。海岸に出て浜伝いに戻る。

(6月15日):五時三十分警報発令。小笠原諸島敵機来襲。北九州空襲。

(6月25日):賞与1700円支給

  ---6/28より10/13まで日記の記入なし---

 (注;この理由として 日立兵器㈱での高射砲工場立ち上げの為大阪造兵廠への出張等々多忙を極め、勝田の寮に連日寝泊まり。家族は多賀に置いたままの単身赴任、日記は寮には置いていなかったと思われる)

9月15日):百合誕生

(10月14日):久し振りの休日。子供も喜び、自分も楽しい。秋晴れの好日。

  ---これ以降 連日空襲警報発令される---

(11月13日):夜に家に帰る。多賀の家でこの冬を越す準備を始める。引越しを見送る。

(11月28日):朝の内雨。後天気良くなる。今日は空襲なく。タバコ無く

      て淋し。家に帰る。セツ、兄の応召で30日家の帰る由。

(11月29日):武子帰る。風呂が無く寒いので早く休む。十二時近く警報

      発令 工場に行く。壕内に待機している。帝都空襲中との

      事。

(11月30日):三時過ぎ二回目の空襲警報。雨の中を工場に集まる者欺な

      し。六時に解除。眠くなる。癪になること甚だし。

      雨降りて寒さ身に滲みる。

  ---12月は連日空襲警報、工場に当直する日多し。

(12月31日):家に帰る。夕方まで三回も警報発令される。

 <昭和20年の日記は行方不明>


四女 紀代(昭和23年2月14日);誕生地:ひたちなか市東石川四丁目社宅

昭和23年の日記行方不明。


母;礼子の病床メモ(昭和55年)

 

 母の肺癌発症発見は昭和55年2月1日の日立戸塚病院での健康診断からである。その時の様子は

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<2月1日>

 最近体調が体調が宜しいので健康診断に院に行く。年頭と言うのでレントゲンの検査をする。

 右胸に病巣らしきものあるとのこと。青天の霹靂とはこのことか。ショックを受けたが体調に何の変化もないので実感湧かず。 

 二週間後に来院を約束して 薬を貰い帰宅。何の変化もないがリマクリンとマイナーと言う結核の薬の為か 急に食欲がなくなり 全く眠けが無くなる。

 十四日に来院したが 何の変化も無く 悪いと言う。急遽入院することになり十八日入院す。突然のことにショックの大きい事と半信半疑の為神経衰弱気味。二十四時間眠れぬ日が続く。食欲は益々不振。先生も困った様子。国立療養所中野病院に相談行き入院する。

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昭和55年の療養メモ

昭和55年のメモ



母の「病床日誌(メモ)

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病床日誌(メモ)
病床日誌PDF.pdf
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