現在の栃木市の一部は 所謂 幕府の直轄地。合戦場・大平町は関宿藩の知行地であった。小平家は合戦場の知行地の年貢取り立て等々を任され 特に幕末頃頻繁に関宿に呼び出されていた模様。
平成7年に野田市関宿三軒家に「関宿城博物館」が建設され この地の戦略上の歴史と文化を探る基点となっている。
近世の関宿藩は、江戸城の外城として重要視され、松平康元(家康の異父弟)が1590年(天正18年)に2万石で入城。以来小笠原、北条、牧野、板倉、久世と代々譜代大名を配置。天守閣は皇居内の富士見櫓を模して1671年(寛文11年)再建され、1874年(明治7年)取り壊された。本丸跡は、現在地より500m南にわずかに残っている。
栃木から関宿へは 小型の底が平べったい部賀舟で巴波川で南下し、現在の渡良瀬遊水地近くの部屋河岸で 高瀬舟に乗り換え 渡良瀬川に合流。利根川に出て江戸川の入り口にある関宿へ。江戸へは東京湾手前の小名木川を経由して日本橋河岸で下船。
23代に及ぶ関宿藩主の中でも久世氏の治世は最も長く、1669年(寛文9年)から幕末まで9人の藩主。うち広之、重之、広明、広周の4人の老中を輩出。加えて大阪城代、京都所司代、神社奉行の要職に就く。中でも 幕末にかけて広周は、老中として安藤信正と共に公武合体運動に力を尽くし、歴史に残る活躍をし、藩内においても治水事業、教育を奨め、領民から尤も慕われていた藩主と言われている。