1、小平姓と小平家の遠祖は?

 再び『姓氏家系大事典』太田亮氏著)によると『佐野源左衛門常代の七代孫・伊豆常行の後にして、その長男宗行(小平若狭守、佐野荘上小平に住す。因りて氏となす。足利成氏に仕ふ。「ー伊豆行春ー兵部常高ー土佐常安ー出雲元安ー壱岐元道(傳蔵)ー若狭行道(傳蔵)-若狭安道(傳蔵)ー傳蔵(慶長18年(1613年)浪人す)」なりと。又 行春の弟に「右近元行、刑部房行」あり。』

 

 これを意訳すると『佐野氏の拠点であった安蘇郡下に関しては、伝説の「佐野常世」から7世後裔の伊豆守常行の息子・若狭守宗行が同郡小平郷に因み 小平姓を称え、初代の古河公方たる足利成氏に仕え その係累は慶長年間に途絶えた』。要は 応仁の乱等々の戦国時代までは武士として活躍したが 徳川幕府成立が固まった17世紀前半に途絶えたのである。

 

 そして その後 時期は判らないが 安蘇郡葛生のほぼ東方の直線距離にして12㌔先、太平山系を越えた都賀郡合戦場に移り住んだと思われる。

 

 従って 小平家の家祖は安蘇郡佐野庄の葛生辺り小平郷(現・佐野市)に住んでいた佐野氏若狭守宗行と思われる。


蛇足;謡曲「鉢の木」----「いざ鎌倉」の主人公:佐野源左衛門常代

 「落ちぶりたりといえどもこの源左衛門、鎌倉殿の御家人として、もし幕府に 一大事がおこれば、千切れたりとも 具足を着け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に鎌倉に 馳せ参じ、一命を投げ打つ所存でござる」  出典 : 謡曲「鉢の木」
  解説 :
 あのあまりにも有名な謡曲「鉢の木」に出てくる佐野源左衛門常世の言葉である。

ここではちょっと長くなるが謡曲「鉢の木」のあらすじを紹介することとする。

 

< 謡曲「鉢の木」 > ある大雪の日、諸国遍歴の旅の僧が上野国の佐野の渡しで行き暮れて、路端の貧しげな民家に一夜の宿を求めました。しかし、家の主人は貧しさのため、家はみすぼらしく、旅人をもてなそうにも何もしてやることはできないため、それではあまりにも申し訳ないと一度はその僧の願いを断りましたが、雪の中で難儀しているのを見捨てることもできず、結局、泊めることにしました。

 

 主人は客となった旅の僧に粟飯を炊き、心ばかりのもてなしをしますが、夜が更けるとついには暖をとる薪さえなくなってしまい長旅で疲れ果てた旅の僧に満足に暖をとってもらうこともできなくなってしまいました。そこで主人はやむなく大事に育てていた秘蔵の盆栽「梅」「松」「桜」の鉢の木を切って囲炉裏にくべ、火を焚いて旅の僧をもてなしました。
   

 僧は篤い志に感動し、主人を由緒ある人と察し、強いてその素性を訊ねたところ、「この上は何を隠しましょう。これこそ、佐野源左衛門常世のなれの果てでござる」と素性を明かしました。

 

 僧が「何故にそのようになられた」と重ねて訊ねたところ、常世は「一族の者に所領をことごとく押領されて、かくの如き身となりました。しかしながら、落ちぶれたりといえどもこの源左衛門、鎌倉殿の御家人として、もし幕府に一大事がおこれば、千切れたりとも具足を着け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に鎌倉に馳せ参じ、一命を投げ打つ所存でござる」とその覚悟のほどを述べました。

 

 話しを聞いていた僧は、返す言葉もなく、ただただ何度も何度もうなずくだけでした。その後、じっと話を聞いていた旅の僧は、「ご覧のような者でたいしたことはできないが、もしも訴訟などで鎌倉に来られたら、何かのお力になろう。幕府に裁判所のあることをお忘れあるな」となぐさめ、翌朝には旅立ちました。

 

 やがて春になり、幕府から、鎌倉に一大事がおこったとて、緊急の動員令が下されました。まさに「いざ鎌倉」と関東八か国の御家人たちが先を争ってかけつけ、その中には 当然、かの佐野源左衛門常世の姿もありました。すると大勢の武者の中から幕府首脳部の前に召し出された常世は、千切れた具足に錆びた薙刀のみすぼらしい姿をあざけり笑う武者達の前を悪びれることなく進みます。

 

 そこで待っていたのは、あの時の旅の僧でした。「わしはいつぞやの大雪の日、一夜の宿をそちの家でやっかいになった旅の僧である」実は雪の日の旅の僧こそ、前執権(しっけん)で鎌倉幕府の最高実力者北条時頼その人であることを知って常世はおおいに驚きました。

 

 時頼は常世の言葉に偽りがなかったことを賞し、先日の約束を果たしたことを誉め、その志にむくいるため、時頼はただちに奪われた佐野庄三十余郷を常世に返し与えただけでなく、薪にされた三鉢の盆栽の梅・桜・松にちなんで加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の三つの庄園を新たに恩賞として与えました。まことに過分の待遇であったといってよく、常世は大喜びで故郷に錦を飾ることになりました。 


2、佐野庄の遠祖・佐野基綱

【出身地】下野国安蘇郡佐野庄(現・佐野市)
【家祖】佐野基綱(佐野太郎基綱)…藤原秀郷の後裔で平安時代末期の武将・足利七郎有綱(俊綱の弟)の子で鎌倉幕府御家人。足利基綱とも。下野国安蘇郡佐野庄に住み、佐野太郎と改名したことに始まるとされる。
【本姓】藤原北家秀郷流足利氏庶流(源姓足利氏とは別系統)。宇多源氏、藤原氏など諸流多し。
【略歴】本宗である藤姓足利氏当主・足利忠綱に対し、家祖・基綱は源頼朝を支持したため、藤姓足利氏の嫡流が滅亡した後も鎌倉幕府御家人として家名を維持した。

 承久の乱での功により淡路国の地頭職に任じられ所領を得るも、宝治合戦では三浦氏に味方したため本領以外没収され、没落した。 


<室町時代中期の関東の勢力図>


 佐野氏は 鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して鎌倉公方、古河公方に仕え活躍し、戦国時代には古河公方の足利義氏の衰退に伴って佐野氏も後北条氏の影響下におかれ、後北条氏と敵対する関東管領・上杉謙信の侵略にさらされるようになった。

 佐野豊綱・宗綱の代には独立した勢力を保っていたが、宗綱の死後、養子・氏忠を迎え後北条氏の傘下となったが、小田原の役において滅亡の危機を迎える。

 佐野房綱(天徳寺宝衍)が豊臣秀吉に味方し活躍したため存続を許される。江戸時代初期の当主・佐野信吉に不行跡があったため徳川氏により改易処分となり、大名としての佐野氏は終焉した。