この時期の小平家の歴史に関して 伯父小平知二が1979年3月(昭和54年)『「小平浪平誕生地」碑によせて』のなかに一文が載っていますのでこれを引用します。
私の現在住んでおる地、合戦場は徳川時代末期は現在の千葉県関宿(せきやど)の藩の知行地の一部でありました。藩主は久世大和守といって徳川幕府の老中職をつとめた人でありました。関宿という町は今こそ小さな町となってしまいましたが、徳川時代には利根川の河港であり、関東平野の物産が水利を利用して此処に集まり、ここから更に江戸に送られ殷賑を極めた町でありました。徳川幕府にとっては至って重要な土地で、関東北部及び奥羽地方の大名を押さえる要衝でもあったとのことであります。この久世藩主は徳川幕府の晋代大名であり、大変な勢力のある大名でもあったようです。
私の祖先は知行地で名主職を務めておった関係上始終関宿への呼び出しがあったようです。徳川末期に近づくとどこの藩でも財政困難になり、小作料の値上げが毎年のようにあったと思うのであります。特に嘉永年間、東京浦賀はペルリ一行の外国船が来た時などは、浦賀に行き大分活躍したことが当時の曾祖父の書いた日記に記されてあります。
こういう時代ですから、私の曾祖父、祖父等は江戸との往来が頻繁でありました。現在私の家にある柱時計は、明治の初め祖父が横浜で買ってきたものであり、今迄百年以上も動いております。私の家を飾るには最も相応しい古い記念物であります。
鎖国の解除と共に、新しい計画が実行されたのであります。第一は私の祖父は幕末より明治の初期には色々なことをしました。地元では鉛丹作りをしました。鉛丹とは鉛を鍋の中で溶かし熱を加えて酸化させると赤い粉になります。これを船底に塗ると船速を遅らせる貝類も付着せず 又錆止めとなり、漆の中に入れると東照宮で使用する塗料になると聞いております。今でもわたくしの家に若干製品が残っています。
然し原価を無視しての事業は二年足らずで失敗しました。浪平叔父も「父惣八がこれに成功したとしたら、家内中鉛毒にかかり絶滅しただろう」と話したこともありました。
明治二十年頃のことを浪平叔父は終戦後「身辺雑記」の「父の思い出」に次のように書いております。
「父は事業に失敗したりと雖も、余が工業に志し、父の希望に副はむという考えを起こしたるは、此の為なりと思う時には、此の事業は決して失敗に非ず、日立製作所の種子とも見るを得べし。」と書いてあります。
又 祖父は福島県で石炭山に手を出し失敗し、祖父の死後私の父は十九歳ごろ福島裁判所から呼び出しがあり、この解決にはこりごりしたと言っておりました。
こういう祖父でしたから、早くから子供(父および叔父)には、当時東京で流行の洋服などを着せたもので、その写真が今でも残っています。
一言で言えば、早くから洋風へのあこがれを持っており、第一に実行したことは自分の子の東京留学であります。その第一陣は私の父でした。小学校をを終わると直ぐ東京の親戚に預けられ、その当時の日本は独逸に対する憧れがあったようで、独逸協会中学に入学させられました。これは独逸語を学んで医者にさせる目的でした。
然し不幸にも私の父は同中学を経て第一高等中学校へ入学を果たしたものの、三年生の時に祖父惣八が死去し残された負債整理で帰郷せざるを得ぬ状態になり、青雲の志は達成しませんでした。私の父が東京に行った明治十七年頃は鉄道の便はなく、今の古河市迄歩いて行き、そこから川蒸汽船で利根川を下り、江戸川を経て隅田川の両国橋代地付近で下船したとのことです。
然し叔父浪平が上京した明治二十一年頃は、鉄道は上野―宇都宮間が出来ておったようです。叔父も私の父同様親戚に預けられ、上級学校に入るため現在の予備校のような色々な塾に通い努力した結果、明治二十四年七月目出度く第一高等中学に入学(五年生高等中学最後のクラス)が出来ました。当時第一高等中学校の受験者は千二百名ぐらいあり、入学者は七十名で、矢張り学校に入るのは現在同様難しかったようです。
叔父はその後東京大学を卒業し会社の創業に当たっても非常に苦心しましたが、現在の日立製作所は世界的な大会社となりまして、その苦労は報いられました。
上の瓶詰の中身が曾祖父惣八の製造した「鉛丹」である。今でも合戦場の製造場と称する小屋に残っている。
今でも残っている鉛丹の製造場内部。坩堝は5台あったと言う。
この建物の右側が鉛丹製造場。
曾祖父惣八が 明治初年に横浜で購入したと言われている柱時計。今でもゼンマイを巻けば動いている。
左の写真は 明治15年に撮影された祖父・儀平12歳、浪平9歳時の写真。如何にも曾祖父・惣八のハイカラ好みを象徴している。浪平は山高帽をかぶり、モーニングを着て、胸には時計に鎖を下げている服装である。
明治維新は誰でも資金と才覚があれば「大通り」にお店を出すことが出来た。江戸時代からあった肥料問屋や麻問屋に交じって
明治4年には
・万町の橋田喜平が洋物店(舶来品)を開き、こうもり傘や帽子を買えた。
・倭町の中田注吉は文房具店を
明治6年には
・ガス灯36基が灯された。
明治7年には
・菅谷甚平が活版印刷を
・石町の角正は肉屋を
明治9年には
・鯉安が料理店を、パン屋、牛乳も買えるようになった。
・写真館もこの時期に開業してのであろう。
<参考資料>幕末からから明治初期にかけては日本の大転換期。2018年12月に「アジア歴史資料センター」が 当時の欧米、東アジア、日本の状況を対比して纏めている。