毎思曾遊豈莫顰
夢魂夜々問帝都
墨陀江畔花千染
白子村頭月一輪
春深短艇乏芳沢
更老厳霜壓弧劔
数奇今日漫休笑
我亦当年得意人
これを意訳すると
・曾て遊学したこと時のことを思うたびに(中途で学問を諦めねばならなかった)無念の思いに顔を顰(しか)めてしまう。
・夜毎夢に見るのは帝都のこと。
・隅田川河畔には桜花が咲き誇るが、
・私が住む村(合戦場)の上には 月が一つ懸るだけだ。
・春たけなわの(墨田の)川面にはボートが浮かんでいるが、
・ここ(合戦場)では厳霜が年経た孤独な私を圧する。
・不遇な私を笑わないでくれ、
・私もかつては得意の若者だったのだ。
この詩に対して 浪平は日記に書いている。家兄は「宇宙を呑む大志も半途に破れ、山海を覆す謀遂にならずして、田間の一農夫となる。其の意思うべし。只これを快ならしめ、之をして満足せしむは只我のみ。」と 家兄への思いやり、必ず恩返しをすると心に誓っている。
合戦場の小学校では県知事から成績優秀で表彰され、第一高等中学で医者志望と 秀才の名を喧伝されていた儀平は 運命の皮肉から、弟の浪平が事業家として伸びたのに対し、儀平はついに地方の人として終わらざるを得なかった。母親のチヨからは「正直者たれ」と家庭教育を受け、持って生まれた誠実さに加え 努力家でもあったので 銀行員として成長していった。
弟浪平はこの家兄を親以上の人と呼んで尊敬惜しまなかったのは 当然のことであったのであろう。
栃木町に本店設立と同時に足利町にも支店設立。この時の足利支店の設立発起人は小俣村(現・足利市)の豪商木村半兵衛。
父方の曾祖父至徳と一緒にこのエリアで学区取締りをしていた。
明治初期の栃木県経済界は問屋街栃木町と織物の足利町を中心に展開されていた。
第一次世界大戦から第二次世界大戦迄の25年間は文字通り日本経済は戦争景気と反動恐慌、昭和恐慌と統制経済。栃木町も例外ではなく資金需要に対応すべく栃木銀行、栃木商業銀行、栃木共立銀行、栃木農商銀行、栃木倉庫銀行と銀行が林立・乱立。
この間 曾祖母チヨと実直な銀行員祖父儀平は栃木町北部地区の家中村合戦場の有力地主として 家運を盛り返して来た。
その後 勤めていた㈱第四十一国立銀行は ㈱第四十銀行を吸収し、㈱第八十一銀行と名前を変え、更に㈱東海銀行に吸収され、儀平はこの銀行の宇都宮支店の支配人となった。
昭和2年(1927年)は 鈴木商店、台湾銀行等々破綻の金融恐慌まっただ中である。更に 当時財閥系銀行に比肩する地位を固めつつあった第一銀行(明治5年渋沢栄一が設立)が銀行再編の中でこの㈱東海銀行を吸収。儀平は宇都宮と栃木支店の兼務支配人となった。現在のみづほ銀行栃木支店である。写真は大正の頃のひと際目立つ大通りの㈱第四十一国立銀行栃木支店の洋館。
明治40年の大通りの商店街。㈱四十一銀行は呉服太物商善野伊平の隣。
昭和63年4月1日の日経朝刊のコラム「春秋」欄に「儀平」の名前を発見。記事を其の儘記す。
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「第一銀行の方針と申しましても別に変わったことはなく ただ銀行本来の職分を忠実に実行するものまでのことであります」。第一勧銀宇都宮支店の旧電話交換室から先ごろ一通の所信が見つかった。昭和2年4月30日、第一銀行(第一勧銀の前身)が支店支配人小平儀平に宛てたものである。
▼鈴木商店、台湾銀行の破綻で金融恐慌のさ中だった。第一銀行は東京、栃木に計23店舗を持つ東海銀行(現在の東海銀行とは別)を合併、財閥系銀行に比肩する地位を固めた。書信の発信人は佐々木勇之助頭取、受信人は小平儀平東海銀行宇都宮支店支配人。内容は第一銀行の方針、心得を述べた計4枚でタイプで打たれている。
▼「真面目な商工業資金の供給を常に念頭に置き、卑しくも、不動産及び不動産用資金など投機的思惑に用ゆる資金は絶対に避けねばなりません」。商工主義は初代頭取の渋沢栄一以来の伝統だが、佐々木は更に「釈迦に説法だが」と断って「銀行者の基本的な姿勢を繰り返し細かく述べている。
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・「支配人は支店の功績を誇るよりも損失を防ぐように」
・「行員は決して自己の独断を成さざる様心掛けよ」と書き、
・「人は分り切ったことを守らない為に間違いを生じ易いものであります」
と結ぶ。淡々とした筆致が、かえって当時の激動を想像させる。
書信は回覧されたらしく、末尾に15個の印鑑が縦一列、律義の並んでいる。
60年後の今、銀行界は激動、「お手付き、勇み足」容認の風潮。基本姿勢が崩れていないか?
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この記事から30年以上過ぎ 平成も終わろうとしているが 未だに日本経済の浮上の兆し、実感が確かになっていない。
現在の「みずほ銀行栃木支店」。