儀平は銀行に勤めだして3年後の明治27年4月5日 栃木町内の長谷川調七の姉 チカ(20歳)と 合戦場自宅で華燭の典を挙げている。浪平は「晃南日記」にその時の様子を書き残している。余程嬉しかったのであろう 浪平の喜びは大変なものである。又 文章は簡潔にして名文である。
花笑ひ 鳥歌ひ、霞は棚引き 実にや 長閑き春の季節、さらぬだに嬉しきは 家兄の祝儀にぞある。
何事も忙しく手も足も休むる暇もなけれど、只だ総て目出度き事のみなれば、慈母を始め 疲れも忘れて世話などする。
酒の池、肉の林、山のもの、川のもの 丘をなすばかりなり。来客には間中伯父伯母、同小雪、共一人、金崎伯父伯母、同力、大沢貞司、其の他の親戚を始め組合、近隣等150~160名なりき。
夜七時頃 花嫁御寮は静々と入り来りぬ。何事も古例前格のある事なれば、長々しき儀式を為すも 暇取りて,十二時過ぐる頃 漸く夜食となる。全て終わりて栃木町の来客の帰りたるは午前三時なりき。目出度しめでたし。
然し乍ら この結婚は4年で破局を迎える。チカは当時不治の病と言われた肺結核に罹っていたのである。合戦場の家に一緒に住むことが出来ず 仕事の帰りチカの実家の離れに立ち寄り、または休日に赴き懸命に看病するも 当時の掟なのか 明治31年10月31日除籍届を出さざるを得なかった、生き別れである。墓誌をみると翌年の6月7日没(享年26歳)と彫ってある。人生第2の挫折である。祖父の顰め面が目に浮かぶ。
チカの弟長谷川調七は 現・栃木市内 萬町で「出井書店」と言う屋号の本屋を開業している。
場所は 左の写真の下段の〇印の場所。隣は善野佐次平の豪商質屋。この商店図は明治40年。(出所;『豪商の物語り「栃木の商業と金融」』より。
又 調七は 戦前に栃木町の町長、市議会議長、市長を歴任している。
長谷川調七 公職履歴 | |||
公職 | 期間 | 備考 | |
栃木町町長 | 第4代目 | 昭和6年10月~昭和10年6月 | 初代町長は根岸政徳氏(明治24年~) |
栃木市議会議長 | 初代 | 昭和12年7月~昭和15年2月 | ー |
栃木市市長 | 第3代目 | 昭和15年3月~昭和16年4月 |
栃木市の市政は昭和12年~、 初代市長は榊原経武氏(昭和12/7~14/6) |
出所;「栃木市の歴史」日向野徳久著(昭和41年11月10日発行) |
長谷川家の墓地は市内の中心地である入舟町にある個人墓である。広さは200坪はあるであろう。
間違いなく戦国時代皆川城の家来時代からのものを ここに集約したのであろう。総本家の墓石は古く判読できず。
チカは知加と言う漢字。
その後 明治33年7月には弟浪平が卒業し 藤田組小坂鉱山に就職した為仕送りがなくなったこともあり 又 家業の方も安定してきたため 明治35年に隣町安蘇郡葛生町(現・佐野市)の父新井金平、母ラクの四女、明治15年9月生まれのノブを嫁として迎える。ノブの父金平は町医者であった。安蘇郡と言えば 室町時代に小平邑があったところで この邑の姓を称した「小平家」の発祥の地である。儀平は32歳、ノブ20歳 一回り違いの夫婦の誕生である。目出度しめでたし!目出度しめでたし!である。
が、この結婚は 儀平にとっても、ノブにとっても必ずしも幸せではなかった。チカと離縁したとは言え 慈母チヨからの強制離縁要請である。儀平は既に30歳になっており このまま跡継ぎが生まれないのでは小平家の存続が危ぶまれる。離縁後何年チカが生きながらえていたか詳らかではないが この間 儀平は病床のチカのところに通っていたのである。このトラウマが一生ノブの心に蔽いかぶさったと思われる。
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