5、浪平に影響を与えたと与えられた人々


5-1「慈母」と「兄の恩」

「慈母」と「兄の恩」に関し 伯父小平知二が1979年3月(昭和54年)『「小平浪平誕生地」碑によせて』のなかに一文が載せてありますので これを引用。


 このような小さな寒村から、而も貧乏家庭から斯様な人物が生まれたことは、本人の努力したことは勿論ですが、同時に周囲家族の者の温かい励ましがあったからと思うのです。特に私の祖母は夫の死亡した後、19歳の長男である私の父以下7人の子供を残されて、その生活は苦労の連続でありました。この辺り私の父の日記、又叔父の「晃南日記」にもよく書いてあります。

 

 叔父も終戦後に自分の子孫の為にと、家系図及び歴史を書きましたが、この日記や「身辺雑記」を見ると貧乏の中で自分の母、兄が如何に苦労して自分を学校にやったかが書いてあり、「身辺雑記」に「慈母」「兄の恩」と言う章があります。

 私も祖母からよく苦労話を聞かされました。叔父が学生時代、東京から帰ると学資を渡せねばならぬ。或る年末に山林の

 

木を一家年越しの資金にと売って「やっと50円を手にした。これで家中お正月が越せる。」と楽しみにしておった時、たまたま叔父が帰って来たが 困った顔も見せずその金を学資として叔父に渡したことを聞きました。しかしその後で家中で正月も越せぬと泣いたこともあったそうです。昔の50円の金高は大したものでありました。

 

 斯様に一人の優秀な人物が生まれると周囲が温かく育てることによって、始めて立派な人物が生まれるものと信じております。

 勿論叔父も生家の苦労を良く知っていて、夏休み等は帰宅せず北海道へ海底電線を敷設する仕事に行ったとかで、これも実習を兼ねたアルバイトの一種でしたが、帰宅した時は垢だらけの洋服を着て帰って来たと祖母から聞いたこともあります。これまた叔父は随分苦労したものと思います。又明治33年大学時代秋田県の両羽電気紡績㈱から電気事業幇助の功 少なからずとて慰労金50円也が贈られた表彰状が後になって見つかりましたが、これも亦アルバイトの一種であったものと思われます。

 

 以上の通り我が家では一家一丸となって、叔父を励まし又本人もこれに応え良く努力したものと思うのであります。


<慈母チヨの庭訓>

 

 

 上の写真は惣八の13年祭(惣八は明治23年12月25日に49歳で病没)、明治38年12月25日に自宅で撮った集合写真である。最前列の左が慈母チヨ、その後ろは儀平嫁のノブ(信子),その右隣は浪平の嫁ヤエ(也笑)。中列左のシゲは惣八の先妻の連れ子(娘)。末娘のヤイが16歳になり ほぼ子育てが終わり、チヨ(48歳)が家業の全てを取り仕切ったと時期と思われる。

 

 又 儀平、浪平が写っていないのはお互い30台前半。担当者として働き盛り。この時期 浪平は小坂鉱山を退社して東京電燈に勤務中。翌年の明治39年に久原房之助の招請により日立鉱山に転職した。

 

チヨの性格は

・親等目上には逆らわず 誠に従順。

・村の人々にも、近所の人々にも温情的に接する。

・子女の家庭教育には 慈悲第一で、口にする言葉は”正直者たれ”。

・又 子供の才能、性格を見究め その個性合うよう育だて、学問の好きなものは最高学府まで学ばせる。

・一方 家庭内にあっては姑として「烈婦」「烈女」「ゴッドマザー」。この被害に遭ったのが儀平の嫁ノブであった。

 

 このような母親を見て育った儀平・浪平兄弟は成上がり式行動は好まなかったし、浪平は母親や家兄を差し越して迄 成上りもの気分を発散させる愚かさはなかった。村の公会堂建設資金に2,000円、自分の通った小学校の火事再建資金に1,000円、村の教育資金に1,000円等々寄付しているが あくまでも家兄を通しての寄付行為である。

 

 慈母チヨは昭和3年3月に亡くなっているが その葬儀に対して特製の棺を東京でしつらえて 大勢の職人関係者と共に来村し 母堂の葬儀を飾ったとか。花輪は自宅から南へ東武線の踏切まで約500メータ続いたと当時12歳であった小生の母礼子が言っていた。

 


就職後は 浪平が弟達の面倒をみた。

<小坂鉱山時代;浪平から家兄儀平への手紙>

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社会人になった浪平は 兄儀平に代わって 病弱な弟陳平の療養費を負担。
大学を卒業後山奥の小坂鉱山に勤めだしてから半年後の明治35年の旧正月に兄宛手紙を出している。最後の文面に すぐ下の弟陳平が病気になったのであろう療養費として30円(2ヶ月分)を送金している。破格の給料(85円/月)を貰っていたのも確かであろうが これも兄への恩返しだったのであろう。『拝啓 久しくご無沙汰に打過ぎ・・・・・・中略・・・・・ 当地も旧正月にて、毎日の宴会にて殆んど閉口仕る。漸く3日を費やして 本日より例の通り執務致し居り 山の中なれば何でも酒なければ夜も明けぬ始末にて下戸□の困難御推察ください。本日金30円也御送りまする。右を陳平殿療養費(2月、3月分)の内に 御繰入れ度。・・・・・』兄上様
小坂鉱山時代の兄宛手紙.pdf
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<日立鉱山時代;浪平から家兄儀平への手紙>

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次に 浪平は 兄儀平に代わって東大に入学した弟勲の学費を負担。
この手紙は 明治43年8月に合戦場より日立鉱山の浪平の役宅に手伝いに来ていたシゲ(父惣八の先妻の娘、即ち儀平・浪平の腹違いの姉)が 儀平宛て送ったものである。『拝啓 炎暑に候にて・・皆様御変りなく 中略 ・・・・・・・同封にて通帳郵送申上ぐる御手続き之程願たく30円之方を当座に致し置き・・・・早々・・御用事まで 御旦那様  志げより』。末弟勲が帝大に合格したのでその学費相当を月々負担していたものと思われる。
日立鉱山時代の兄宛手紙.pdf
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<儀平と浪平の写真>


5-2 晃南日記

下記URL参照

 

晃南日記;https://kounan-nikki.jimdofree.com/


<村井弦斎との関り合い>

明治・大正のベストセラー作家の一人である村井弦斎は、桜田門外の変の3年後、幕末を迎え時代が騒然となりだした文久3年(1863年)、三河(豊橋市)の吉田藩の武家の子として誕生。父も祖父も儒家で、特に漢学をよくした家柄だった。

 

弦斎の作家活動は二つの時期に分けられる。

一つは米国遊学前の20歳の明治17年から明治33年の16年間。ユートピアンとして、多くの科学(SF)小説を書いた。

二つ目は、その後、昭和2年に63歳で病没するまで23年間、現代グルメ小説の先駆けとなった『食道楽』を著し、一躍ベストセラー作家となった。弦斎はその印税で平塚に16,000余坪を買い求め、自宅を建て、作家活動の拠点とした。

 

弦斎の父清は、戊辰戦争の奥羽越列藩同盟に参戦し、幕軍だった為、維新後、一家は貧窮の底に落ちてしまった。社会の変動を目の当たりにしたことから「息子には漢学だけでなく、洋学も早くから学ばせたい」と考えるようになり、明治3年に一家で上京。子供に夢を託したのは浪平の父と同じであるが、弦斎の父は、渋沢栄一の息子の家庭教師をしていた程の漢学の教養人であった。

 

弦斎は幼少の頃から、露語の家庭教師をつけられたり、漢学の塾に入れられたりして、早期の英才教育を受けた。明治5年に東京外国語学校が開校すると12歳で受験させられる。明治17年には論文募集で入選し、1年間の米国遊学の懸賞を得て、20歳で渡米。露系移民の家に学僕として住み込み、英語を学び、働きながらつぶさに幸福な家庭生活、女性が尊重される社会を眺めてきた。帰国後の12年は、東北方面へ放浪の旅をしていたが、この時期に 父惣八と知り合い、兄弟の家庭教師をしながら 小平家の食客として逗留していた。

 


その後、浪平が社会人になってからも、二人の交遊は続いた。弦斎は気難しい性格ではあったが、素直な浪平を弟のように可愛がった。時には御馳走し、時には舟釣りを楽しみ、弦斎夫妻と浪平が連れ立って鎌倉旅行に出掛けることもあった。

又、浪平も、日立創業直後の大正元年に、弦斎夫妻を日立鉱山に招待。自ら設計施工した取水堰、導水路、発電所、変送電設備、電車軌道などの鉱山インフラを案内した。弦斎は興味深そうに、つぶさにそれらを見て回ったと云う。弦斎は「浪平は、俺の『二十世紀の豫言』通りに一歩踏み出したな」と感じ、浪平の将来を心強く思っていたに違いない。

 

時は流れ、弦斎が昭和2年に病没すると、平塚の広大な屋敷を維持するのは難しくなった為、弦斎の妻多嘉は浪平に相談。浪平は二つ返事で広大な土地の1/3を買い取り、70坪の別荘を建て、ここでも「大日立の構想」を練った。

浪平は、九州・中国・関西方面出張の帰りなどには、別荘の隣に住んでいた未亡人の多嘉宅に立ち寄り、珍しい食材を届けるなど、家族も含めた「弦斎/浪平の師弟交遊」は、浪平が没する昭和26年まで、半世紀に亘って続いた。

 


 <平塚の別荘>

 村井弦斎から5,000坪を買取り、副社長の高尾直三郎も5,000坪。70坪の家は昭和20年の空襲で消失。

現在はマンション等々の住宅地。「弦斎公園」(約500坪)の北西側に「別荘地跡地碑」があるのみ。

 

 

 

 

「別荘跡地碑」

 碑誌には、浪平の下で大学実習時より40数年間、苦楽を共にした高尾直三郎(元副社長)の撰文にて

『昭和七年 村井弦斎氏より 此の地五千余坪を譲受け 別荘を松林に建て松籟に耳を澄ませ ここでも大日立の構想を練った 家は昭和二十年七月の空襲で皆焼けた 学士院会員渋沢博士は大学同窓の親友である 昭和三十九年 晩春 直』

 

と刻まれている。


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半世紀に亘って続いた二人の師弟交遊.PDF
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弦斎・浪平関係年譜.pdf
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<平塚市の弦斎まつり>

 

 

 

 

 

 平塚市では毎年9月の第4日曜日に街おこしの一環として「村井弦斎まつり」を開催している。

 

 浪平の別荘敷地跡碑は この「弦斎公園」の北西側徒歩2分のマンションの一角にある。

 

この写真は2014年9月に撮影したもの。

 


<参考>大甕(おおみか)ゴルフクラブ

 

 

 

 大みかゴルフクラブは1936年(昭和11年)10月11日に日立ゴルフ倶楽部という名前で井上誠一設計で18ホール・パー74の本格的なコースとして開場。この時、茨城県では1番、関東では8番、全国でも14番目に造られた古いコース。

 

 

 しかしその7年後の1943年には、戦争のためにゴルフ場を閉鎖して大みか農場と改称されて芝をはがして、イモ畑、麦畑となりました。


 

 

 

 戦後、1950年にはゴルフ場として、ショートコース3ホールで再開。

 

1953年には6ホールに拡張されて、最終的には8ホールのゴルフコースで日立製作所の福利厚生施設として運営。

 

 なぜ8ホールなのかというと9ホール以上だとゴルフ場という扱いになり福利厚生施設として認められなくなるから。


5-5 渋沢元治

 大学時代の学友、のち名古屋帝国大学学長となった人物。渋沢栄一の甥で、栄一の海外視察のお供をして渡欧、スイスのチューリッヒ工大に学び、シーメンス、米国のGE工場で実習してきた当時としては水力発電技術の第一人者。帰国後 逓信省電気試験所の技師となり、当時東電の前身東京電灯が新建設する世界的な規模の桂川駒橋発電所の主任検査官をしていた。その渋沢が駒橋に行く為中央線の始発駅飯田橋駅で列車に乗り込むと、偶然浪平と乗り合わせた。ここからが日立の稗史に残っている有名な「大黒屋会談」である。この晩の二人の会談で、浪平は東京電灯を辞め 久原の日立鉱山に転職する決意をす。自らの手で電気機械の開発・製造を国産化しようとした覚悟を決めた会談であった。。

 

 振り返ってみると結果的には「渋沢」家とは不思議とご縁がある。

①浪平に電機産業の夢を語った「村井弦斎」の父清は渋沢栄一の知遇を得て第一銀行勤務。渋沢栄一の子息の家庭教師も勤めたほどの教養人であった。

②渋沢栄一の甥が渋沢元治。浪平の同期の学友でもあり 終生お付き合いしている。

③浪平の兄儀平は学業を中退せざるを得なくなり 栃木の第四十一国立銀行に勤めだしたが この銀行は昭和初期の金融恐慌の銀行再編で第一銀行に吸収され 栃木支店と宇都宮支店の支配人になっている。

④日立は 昭和初期の不況時に 大胆な大型投資をしているが かなりの融資を第一銀行から受けている。

等々。 



小平浪平翁記念会発足(2017/10/05)

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 平成の市町村大合併で 合戦場のある都賀町は栃木市に吸収されたのを機会に 栃木商工会議所の大川吉弘会頭が音頭を取って「小平浪平翁記念会」が発足。活動内容は

① 命日忌事業/生誕記念事業 

② 啓蒙啓発事業

③ 生家保存に向けた調査研究

とある。

役員として名誉会長に庄山名誉相談役をお願いし、商工会議所メンバーが28名を連ねている。

 

お袋の生家で実家でもある家が保存されることは喜ばしいことである。