本来的な意味での「seniority」と「juniority」の関係性を想起出来る。
東アジア文化圏では「老」は知恵の塊、恩師・先生は老師。
<青春、朱夏、白秋、玄冬>
「juniority」は青春、自然も人間も もの皆 芽吹くもっとも創造的な時節です。このような循環的時空哲学の中で生命エネルギーや知恵、そして「資金の好循環」が成立していた時代が日本にも確かにあったということでしょう。
名器は奏者を得て音を奏でる。幕末・明治期を取っただけでも、立志伝中の人物の履歴などには、これに類する様々な関係性が広く偏在していたことが感じ取れます。彼らにとって日本は”どこにも負けない輝ける自由に満ち溢れた国”だったのかも知れません。
野口悠紀雄氏のいう「seniority年功序列システム」は、「単なる老化衰退集団の既得権の順送りシステム」(注;現在の政官財報の仕組み)に過ぎず、護送船団「日本丸」という特殊戦後日本的な権力集団の組織原理の変異種に過ぎません。
<野口悠紀雄 - Wikipedia>
そして、彼らが作り出すキャッシュフローこそが、GDPのみならず日本全体を底知れぬ泥沼(埋没する日本)に引きずり込もうとしているprime mover原動機と言えるでしょう。
”日本の常識は世界の非常識”は、正しく”護送船団「日本丸」の常識は世界の非常識”と言い換えられなければなりません。
以上