西高島平駅から成増駅へ(2022/12/25)

 

 区部の武蔵野台地西北端(荒川の向こうは和光市)。

 西高島平駅の周辺は、犯罪発生率が低く治安がとてもよさそうな街。でも 交通の便が悪く都心に出るまで時間がかかり、スーパーが1件しかないので買い物に不便そう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<高島秋帆が高島平で行った砲術の演習>

 天保12(1841)年5月9日、砲術の演習。場所は現在の高島平で、当時は徳丸ヶ原といわれた広大な農地・草地。この演習は総勢約100人に達する大規模なもので、見学したのは水野忠邦ほか幕府要職と諸大名、遠くから町民も見学。

 

 モルチール砲一門、ホウィッスル砲、野戦砲による発射演習で1㎞近い長距離砲が放たれた後、97人によるゲベール銃が一斉射撃を行うなど、かつてない砲術は参観者を圧倒。火縄銃しか知らない参観者に衝撃を与えました。高島秋帆の名前は一気に全国に知れ渡り、門人希望者が押しかけました。

幕府は演習成功の恩賞として銀200枚を高島秋帆に与え、高島秋帆は長崎に戻る。しかし、この成功を妬む者により冤罪で投獄され、10年以上も獄中生活を強いらる。

 

<現在の高島平周辺>

 演習の拠点となった松月院本堂横には、高さ6mの高島秋帆紀功碑があります。徳丸ヶ原は高島平団地になり、高島平駅は昭和43(1968)年に開業。

 

<高島秋帆が開いた近代国家への道>

 出獄後、不遇な時代のことなどなかったかのように、高島秋帆は再び西洋砲術の必要性を説く。

 

 嘉永6(1853)年のペリー艦隊来航時は幽閉から釈放されたばかりでしたが、高島秋帆はペリー来航に対し平和開国通商を献策。当時、開国は降伏を意味していた時代で、これは覚悟の上書であり近代国家への道を開くことになった、と のちに高く評価される。

 

 幕府が開国を決定後、高島秋帆は講武所砲術師範役、武具奉行の職につき、東京の文京区小石川で晩年を過ごす。


田町駅~高輪ゲートウエイ駅(2022/12/18)


虎ノ門ヒルズ&気象&みなと科学館(2022/12/14)

 

 <虎ノ門駅よりスタート>

 

…西桜公園(ウッドデッキと一体化した植栽が美しい緑地公園)

…虎ノ門ヒルズ(52階建の森タワーを中心に、ビジネスタワー、レジデンシャルタワー、ステーションタワーの超高層ビル群で構成。オーバル広場:散歩や緑を楽しめる空間で、8つの言語で人間をかたどった現代アートが。ステップガーデン:人工的な小川のせせらぎ沿いに多種多様な植物が植栽)

…栄閑院(杉田玄白の墓)

…興昭院(こんにゃく閻魔)

…天徳寺(梵鐘、弥陀種子板碑など)

…気象庁気象科学館

(ウェザーミッション、津波シュミレーター、大雨ヒヤリハット、うずまきシアターなど気象や地震の観測機器や日本の自然を体感できるシアター、 防災知識について学べる装置などを展示)

…港区立みなと科学館

(「まちに息づく科学」の発見と探究をテーマに、大型映像装置を使った展示が しぜん・まち・うみ・わたしの4コーナーに展開。プラネタリウムも)

 

<神谷町駅>

 


中山道と江戸の縁辺(西巣鴨から巣鴨駅)(2022/12/10)


志村あたりの武蔵野台地(2022/11/27)

 

 地下鉄三田線志村三丁目駅下車。台地高台の志村城址から志村坂上駅まで晩秋を愉しむ。

<地理>

 板橋区の北東部に位置する。北で坂下、東で小豆沢、南で大原町、南西で前野町、西で相生町と隣接する。町域の東北辺を国道17号(中山道)、北西辺を東京都道311号環状八号線(環八通り)、北部を都営地下鉄三田線が通じている。三田線(北行)は当町域で地下から地上に出て、西高島平方面は高架線となる。

 志村銀座商店街を中心とした商業地域、工場地帯、マンションなどの住宅街に分けられる。

 

<地形>

 武蔵野台地成増台の高台と、荒川低地の沖積層の境目にあたる。

 区の中央部を小豆沢から赤塚にかけてほぼ東西に横断する崖線がいせんが二丁目・三丁目の町域を通り、およそ20mの急峻な高低差に多くの坂道が作られている。

 南部の一丁目では谷戸地形も見られ、前野町との境界、首都高速5号線の高架に向けて急な下り勾配が形成されている。

<歴史>

 廃藩置県実施前は武蔵国豊島郡志村。「志」(し)が村名である。近世においては、堀内村、掘之内村とも称された。

 

<沿革>

15世紀:志村城が築城されたと考えられる。廃城は16世紀後半~末ごろと考えられている。

1524年(大永4年):志村延命寺が創建されたと伝えられる。

1602年(慶長7年):徳川家康の命により、中山道が整備される。

1604年(慶長9年):中山道に、日本橋起点3里地点を示す志村一里塚が造られる。

1718年(享保3年):徳川吉宗将軍が、戸田筋(志村の原および徳丸ヶ原。現在の坂下・蓮根・高島平地域)での鷹狩を行い、延命寺を御膳所(休息所)としたと伝えられる。

1871年(明治4年):浦和県(現埼玉県)から東京府に編入。大区小区制実施。


板碑(いたび)

 主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑色片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。

<構造>

 板碑は中世仏教で使われた供養塔である。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある。

<概要>

分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。設立時期は、鎌倉時代から室町時代前期に集中している。分布地域も、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られ、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられている。

種類としては追善(順修)供養、逆修板碑などがある。形状や石材、分布地域によって武蔵型板碑、下総型板碑などに分類される。

武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑色片岩という青みがかった石材で造られたものをさす。当時から、緑色片岩を「青石」と通称していた。中世においては青屋は、ある種の畏敬の対象とされており、このような観点から青色には人智を超えたものがあったとも考えられている。

 阿波周辺域からも同様の石材が産出するため、主に関東平野に流通する緑色片岩製の板碑を武蔵型、四国近辺に流通していたものを阿波型と分類している。

 また下総型とは主に茨城県にある筑波山から産出される黒雲母片岩製の板碑をさしている。

 戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもある。現代の卒塔婆に繋がる。

 板碑は地域・時代等により形態や石材に多様性があり、地域間交流を知る考古資料として注目されている。

 

 

【龍福寺】(りゅうふくじ)は、東京都板橋区にある真言宗智山派の寺院。

 創建年代は不明である。歴代住職で一番古い記録が、1647年(正保4年)寂の看尊であったこと以外、何も伝わっていない。一説では室町時代末期に真頂院住職の運珍によって開山したといわれている。

 当寺は、数多くの板碑が立っており、「板碑寺」として知られている。中でも「龍福寺建長七年板碑」は、160cmもの高さがある大型板碑で、板橋区より有形文化財に指定されている。



城南五山散策(2022/11/12)

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 城南五山(じょうなんござん)-----バブルな山々

 東京の城南地区にある高台5ヶ所の総称である。いずれも山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけての地域にあり、昭和期以降からの新興高級住宅街として知られる。。

  ・島津山 (しまづやま) ;坪単価約323万円

  ・池田山 (いけだやま) ;坪単価約380万円

  ・花房山 (はなぶさやま);坪単価約347万円

  ・御殿山 (ごてんやま) ;坪単価約248万円

  ・八ツ山 (やつやま)  ;坪単価約387万円

                         (国交省平成30年地価公示価格)

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【島津山】現在の品川区東五反田1・3丁目付近の高台。名称は、旧島津公爵邸に因む。

同邸宅は現在清泉女子大学。

 

【池田山】現在の品川区東五反田4・5丁目付近の高台。名称は、備前岡山藩の池田家の下屋敷があったことに因む。池田山には、池田山公園やねむの木の庭といった公園も整備されている。

 

【花房山】現在の品川区上大崎3丁目付近の高台。名称は、明治、大正期の外交官である花房義質の別邸があったことに因む。

 

【御殿山】現在の品川区北品川3 - 6丁目付近の高台。名称は、徳川将軍家が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があったことに因む。

 

【八ツ山】現在の港区高輪3 - 4丁目付近の高台。

・この地に八つの岬があったので「八ツ山」と名づけたという説

・八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけたという説

・この地がかつての谷山(やつやま)村の一部だったことから谷山が「八ツ山」に転化したという説

 

 八ツ山にはかつて岩崎家の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣がある。

                       (30年前三菱化学の招待を受けたことがある)

                感想;老人にとっては城南五山には住むところではない。




狛江駅~多摩川土手散策(2022/11/09)

狛江駅

…巨大絵手紙

…狛江弁財天緑地(狛江弁財天池特別緑地保存地区)

…泉龍寺(曹洞宗。奈良時代創建。江戸時代建立・再建の本堂、開山堂、鐘楼、山門は狛江市指定文化財)

…市立古民家園(愛称むいから民家園。旧荒井家住宅主屋と旧高木家長屋門が移築・復元。市指定文化財)

…西河原自然公園

…兜塚古墳(東京都史跡。東西34m、南北36m、高さ5mの帆立貝型前方後円墳)

…伊豆美神社(二の鳥居は旧武蔵国内最古の石造鳥居で、関東三大鳥居の一つ。狛江市指定文化財)

…西河原公園(多摩川土手沿いにある公園。サクラが約80本植栽)

…狛江五本松(多摩川のほとりに茂る十数本の黒松。多摩川50景、新東京百景選定の名所)

…多摩水道橋の碑

…狛江駅駅


天体ショー(2022/11/8)


天王星潜入開始                               《岡野兄撮影》


丸ビルからのスーパームーン(2022/11/07)



神宮外苑&早慶戦観戦(2022/11/06)

 昼前 岡野兄の案内で神宮球場へと早慶戦観戦に出掛ける。試合の様子・観客・応援合戦等々 球場全貌が見られ、外野席からの観戦は中々良い。慶應は昨日の試合で9回裏ポテンヒットで逆転負けを喫し、今日は1回の満塁ホームランが尾を引いたのか連敗を喫す。今期優勝は明治に転がり込む。来季の雪辱を期す。



駒場公園(2022/10/12)

 

駒場東大前駅下車

 

…駒場公園(旧加賀藩主・前田家第16代当主の前田利為侯爵の駒場本邸〔洋館・和館・庭園〕を、戦後東京都が取得し都立駒場公園として開園。現在は目黒区に移管)

 

…旧前田侯爵邸(建物は昭和初期の和洋両建築の粋を集めたもの。洋館の外壁はスクラッチタイル仕上げ、内部はイタリア産大理石のマントルピースや柱、フランスの絹織物などが配置。

和館は、ニの間、一の間(表座敷)、重厚な床の間、違い棚、付書院、欄間の透し彫などを配備)

 

…日本近代文学館(高見順や川端康成ら作家などの呼びかけにより駒場公園内に開館。

秋季特別展「生誕120年住井すゑ95年の軌跡」開催中)

 

…東大駒場博物館(美術博物館と自然科学博物館で構成。今回は人間とAIロボットの共存をテーマ。

 

…駒場東大駅

 


池尻大橋駅から渋谷駅まで区境散策(世田谷・目黒・渋谷)(2022/10/08)


高麗川巾着田と中山氏墓所(2022/10/01)


栃木市文学館(2022/9/29)

 

 栃木町の旧役場がこの春リニューアルされて文学館(「郷土の偉人館」に名称変更予定))としてオープン。

 

1Fに「小平浪平翁記念室」が設けられ 郷土が生んだ偉人を顕彰しようと一般公開される。

 

昭和19年の軍服姿と明治40年頃の一族の集合写真は初めて。

 

 


水元公園から江戸川(カスリーン台風の爪痕)2022/9/25


築地駅-佃島-月島駅散策(2022/9/21)

築地駅下車

 

…築地川公園(四季折々の風景が楽しめる)

 

…聖路加国際大(聖路加病院旧館・礼拝堂、トイスラー記念館、浅野内匠頭邸跡碑など)

 

…あかつき公園(霧の噴水、モニュメント「星の時間」、シーボルト胸像など)

 

…聖路加ガーデン(アメリカ公使館跡の記念碑)…明石町海岸公園(水上バスのりば、佃島渡船場跡碑)

 

…佃島(佃煮発祥の地。住吉神社など)

 

…大川端リバーシティ21(石川島播磨重工業東京工場跡地に整備された超高層住宅を中心とした住宅地)

 

…佃公園(復元された石川島灯台、隅田川テラスなど)

 

…石川島公園(日本初の民営洋式造船所発祥の地碑など)

 

…大江戸線月島駅



旧鎌倉街道・笛吹峠 里山散策(2022/09/03)

 

旧鎌倉街道上道を武蔵嵐山駅まで里山散策。

 

古代には瓦窯が数多くあった鳩山町。

 

鳩山街と嵐山町の境をなして街道の要衝で戦のあった笛吹峠、木曽義仲の父の墓所等々の歴史と里山散策。12㌔を3時間かける。


三県境(埼玉・群馬・栃木)散策 (2022/08/23)

 

 

渡良瀬遊水地の西側に埼玉・群馬・栃木県の「県境」がある。加須渡良瀬「道の駅」から南側へ徒歩5分ぐらいの地点。

 

このエリアは物流拠点の投資はあるもののマダマダ純農村地帯。



上野駅周辺散策(2022/08/18)

 

 

午後から快晴となり 猛暑も凌ぎやすくなり 上野の森美術館に出掛ける。

 

山本邦克君が「日本の自然を描く展」に5年連続して入選。流石35回目の伝統ある展覧会。プロ並みの秀作揃いである。

 

序に公園、上野駅周辺を散策。

 

 


黒目川緑陰散策(2022/08/10)

散策のMyGoogleMap

https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1dcIMIr56P6uYNbWUIVoIDrdJEmz1r3s&ll=35.728787465724196%2C139.49575835000002&z=13

 

炎天下は承知で散策決行。

 

上空には風あるも 鬱蒼とした森林が邪魔して湿気ムンムンの無風状態。

 

体力をチェックしただけ。

 

 

帰りの小金井駅までバスで40分。武蔵野台地の中野以西の南北交通便は通勤には厳しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「黒目川」名前の由来(wikiより)

 古くは、久留米川・来目川・久留目川・来梅川という漢字表記もあるが「クルメ」・「クロメ」という名に、後世の人が当て字として、これらの漢字を使っていた形跡が市史などで見受けられる。源流近くの駅名になっている久米川も同語源とされる。

·       湧水が多いことから「水を汲める」

·       湧水が多いことから「土が黒めの肥沃な地

上記のいずれかが有力であるとされている。

またさらに

·       丹羽基二らによると、至る所で豊富に湧き上がる水が沢や湧水地を形成。それらの形成地で、湧き上がってきた水がクルクルと渦巻いていた。かつてはこの渦巻くことを「クルメク」と言っていたことから「クルメ」もしくは「クロメ」と呼ばれるようになったとの考えが示されている。

·       かつてこの界隈の農業が不作続きで「久しく米が獲れなかったので、米がたまる(留まる)位になってほしい」との願いが込められ「久留米」と名付けられたとする伝承。

 

 


十条~赤羽へ(赤羽の多様性探訪3)2022/7/17

 

 埼京線(旧赤羽線)赤羽駅の1つ手前十条駅は十条銀座商店街を中心とした庶民風情漂う街並である。右の写真は篠原演芸場と言って梅沢冨美男を始め多くの名役者を送り出した下町の芝居小屋。

 

 ここから10分も東に歩けば「日光御成道」に出くわす。この道路は中山道の本郷追分を起点として岩淵宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道。将軍様の日光社参は三代将軍家光から十二代将軍家慶まで合計17回。ここまでが武蔵野台地の崖上。

 

 ここから坂を下れば京浜東北線の東十条駅。この崖下に沿ってJR宇都宮線、新幹線も走っている。

 

 「日光御成道」は元をただせば「鎌倉街道中道」である。鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道の1つ。

 

 又 この道路20mの広さに拡幅工事中。これに伴い「十条富士塚」も大規模移転工事中。


成子天神社(2022/07/13)

 

 

西新宿の大学病院での定期健診の帰り成子天神社に参拝。

 

初めて木花咲弥姫命拝顔。

 

又 富士山頂奥宮迄鎖を手繰り寄せながら登攀。

 

七福神ならず六福神となってしまった。


大崎駅~戸越銀座~五反田駅散策(2022/7/9)


涼感を求めに清流の秋川散策(2022/7/2)

 

涼感を求めに清流の秋川渓谷と里山を散策。38度の酷暑のため養沢川沿いはショートカット。


江古田冨士塚 お山開き(2022/7/1)

 

 江戸時代中期以降、江戸には八百八町それぞれに富士講の講中が組織され、江戸八百八講と呼ばれるまでに富士講が隆盛を極めました。

 

 毎年、全員が富士山に登拝できないので、お金を出し合ってその年の代表が富士に登拝しましたが、地元にも富士山の溶岩を配した富士塚を築いて、富士登拝の代用にしたのです。

信仰の対象というだけでなく、富士講発展の宣伝の意味合いもあったのかもしれません。

 

 江古田富士とも呼ばれる小山は、大正12年関東大震災によって損壊しましたが、その後修築されています。

 江古田富士の1合目から山頂までの登拝道沿いには大天狗、烏天狗、神猿などが配され、山頂に奥宮が鎮座しているので、まさにミニ富士。

 

 現在、江古田浅間神社と江古田の富士塚は、旭丘1丁目町会、旭丘2丁目町会、旭丘東町会が支え、毎年7月1日に山開きが行なわれています。

 

 史跡保存もあって、江古田富士に登拝できるのは、正月三が日、山開きの7月1日、そして『浅間神社例大祭』が行なわれる9月第2土曜・日曜の年3回だけ。

 

 現在の練馬区は、江戸時代中期〜明治時代にかけ、丸吉講など富士講が隆盛し、江古田の富士塚のほか、中里の富士塚(大泉町)、下練馬の富士塚(北町2丁目)、氷川神社富士塚(北町8丁目)と富士塚が4ヶ所も現存しています。

 

 下練馬から大山街道(ふじ大山道)を利用し、丹沢・大山、富士山の両参りに便利だったという地の利が背景にありました。