<散策のGoogleMap>
https://www.google.co.jp/maps/@35.6790547,139.6237011,16z/data=!3m1!4b1!4m2!6m1!1s1aMi5D8efBWb80C5WA_Xkls74gaAWpRo?hl=ja&entry=ttu
寒気と暖気団がぶつかり落雷・雹・突風・大雨の気象庁の安全牌予想が見事に外れ 首都圏は終日☀☀☀で30℃の真夏日。
午前中 浜田山の「柏の宮公園」で植物・動物の自然観察会に参加。
50年も経てば2週間前に訪れた明治神宮並みの杜の公園になるであろう。区も税金をかなり投入しているが 主体はボランティア活動で運営している。儲け主義の明治神宮とは違う。
2004年10月開園。面積は 4.3ha(約1万3千坪)。区立の公園としては最大規模を誇る。浜田山駅より南へ徒歩7分。
元を糺せば 日本興業銀行所有のグラウンドを、同行のリストラ(みずほ銀行との統合)の際に杉並区に売却、それを公園として整備したもの。
日暮里舎人ライナーの終点(見沼代親水駅公園)から東武線竹ノ塚駅まで 足立区と隣接する埼玉県川口市&草加市の区境を散策。
<散策のGoogleMap>
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<コース>
※明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社で、大正9年に創建。70万平方メートルの境内には全国から10万本の樹木が奉献・植樹された。現在は234種36,000本の樹木が生い茂る「永遠の杜」「鎮守の森」に。絶滅危惧種や希少種など3,000種の動植物が生育・生息している。
代々木駅
…明治神宮北参道鳥居
…北池
…宝物殿
…本殿
(戦災で焼失したが昭和33年再建。三間社流造の総檜素木造。外拝殿から内拝殿を通して本殿を参拝する構造に)
…清正井
(加藤清正掘削の名湧水)
…菖蒲田
(花菖蒲は明治36年明治天皇が昭憲皇太后のために植えたもの。現在は江戸系・肥後系・伊勢系など約150種1,500株が咲き競う)
…御苑
(もと熊本藩加藤家・彦根藩井伊家下屋敷の庭園を整備。武蔵野特有の雑木林の面影を今に留め、四季折々の風情が楽しめる。伸びやかに自然の中をゆったりと散策しているような気分を醸し出している。隔雲亭や南池がある)
…フォレストテラス明治神宮
(平成30年オープン。土産屋、カフェ、レストラン、結婚式場などが入った複合施設。参拝時の休憩に便利)
…原宿駅
<散策のGoogleMap>
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1590年家康江戸城入府の頃、江戸城から東を向けば島々。よって「向島」と名付け、豊島郡から見やれば魚介類が豊かな島々が点在。よって「豊島」と名付けられたのであろう。
従って 今でも海抜マイナスゼロメータ地帯。
十数年ぶりに丘の上にてゼミ同期7名と正門である南門から南校舎階段を登って大銀杏に集合。
北館のファカルテイにてランチとビールとワインを傾けながら談笑。
旧図書館にて記念写真撮影。入口ホールの階段上を飾るステンドグラス「Calamvs Gladio Fortior」(「ペンは剣よりも強し」)は拝見できず、残念!。
最後は東門に出て ”天は人の上に人を造らず・・・・”(HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」の「学問のすすめ」冒頭文章の諭吉の真意とは何ぞやと思いつつ 田町駅に向かう。
そろそろ卒後60年。「TEMPUS FUGIT」を実感した一日でした。
武蔵野市に一時期、プロ野球の試合をみることができる野球場があった。
中島飛行機武蔵製作所 東工場があった場所、現在の都立武蔵野中央公園。
爆撃で壊滅状態であった工場跡地に、昭和 26(1951)年、グリーンパ-ク球場(東 京スタディアム)が開設され、かつての武蔵製作所引込線を利用して、三鷹駅から武蔵 野球技場前駅(グリーンパーク野球場前)までの鉄道。
この鉄道、国鉄武 蔵野球技場線も短命で終わったことから、「幻の鉄道」とも。
野球場は、プロ野球の試合や東京六大学野球などが行われる。1 年後には 1 試 合も行われずに閉鎖となり、昭和 32(1957)年に解体。
その後、駐留軍 宿舎用地となったり、都営住宅が建ったり・・・。
現在は、紙飛行機の「聖地」でもあり、また、市民の憩いの場でもある、都立武蔵野中央公 園となる。
<コース>
※天王州アイルは、京浜運河と天王洲運河に面した埋立地。オフィス商業複合ビル、商業店舗、飲食店、アートギャラリー、イベントスペースなどからなる再開発街区で、最近は音楽・絵画・フォトグラフ、現代建築など芸術に関連したコンテンツを集積。
…新馬場駅 (しんばんばえき)北品川の鎮守「品川神社」あり
…稼穡稲荷神社の大イチョウ(品川区天然記念物)
…荏原神社(南品川の鎮守)
…品川橋(旧東海道北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられた橋)
…南品川桜河岸まちなか観光案内所
…東品川海上公園(目黒川が注ぎ込む天王洲運河に架けられたアイル橋の南北両端に広がる潮風薫る爽やかな公園。くじらをイメージしたすべり台、ミッフィーの姿を表した花壇や遊具、噴水広場、緑豊かな樹林帯、た四季折々の花を楽しむことができる庭園など)
…巨大壁画「どこまでも繋がっていく」
…天王洲運河水辺広場(天王洲運河の護岸上部を整備した広場)
…港南公園(高浜運河を眺めるできる安らげる空間)
…天王州ふれあい橋(港南公園と天王洲エリアを結ぶ人道橋)
…天王洲アイル第二水辺広場(天王洲運河が目の前に広がるウッドデッキ)
…天王洲アイル第一水辺広場(銀河劇場前のウッドデッキ。京浜運河が目の前に広がる)
…りんかい線天王洲アイル駅
高麗川は埼玉県飯能市、秩父郡横瀬町、比企郡ときがわ町の境である苅場坂峠付近に源を発し、南川と北川が合流して高麗川と呼ばれるようになる。飯能市、日高市、入間郡毛呂山町を流れ、その間に長沢川、宿谷川などの支流を合わせ坂戸市で越辺川に合流する。
この高麗川は、急激な増水により鉄砲水になりやすい川である。また、越辺川最長の支流であり河川延長は本川である越辺川(35.8km)よりも長い。
かつて1300年前の霊亀2年(716年)高句麗から渡来した高句麗人を受け入れた高麗郡(現在の日高市周辺)を流れることからこの名がある。高麗神社,高麗川CC,日高市の中心部にある高麗川駅の駅名も高麗川に由来する。
江戸時代は上流の飯能から刈り出さ杉や檜の木材(西川材)を江戸に運ぶ「筏流し」が行われていた。
近くの星陵会館でのセミナー前に参拝。約1時間程見学。
日枝神社のお猿さん、「神猿」とかいて「まさる」と呼ぶ。
「魔が去る=勝る(まさる)」として立身出世のご利益や、「魔が去る=悪運を絶つ」意味も込められているとか。
猿を音読みすると「えん」。「縁」にもつながることから、「縁結び」のご利益も。「猿は子だくさん」ということから「子授け」のご利益も。
子造りには無縁なので せめて いいごえん(115)になりますようにと 1円玉2枚と5円玉1枚で合計7円を賽銭箱に投入!
又 鳥居に三角形の屋根がのっかっているような形の鳥居は「山王鳥居さんのうとりい」とのこと。合掌した状態になぞらえて「合掌鳥居」。「仏教」と「神道」の合一を表し、神と仏どちらも信仰する山王信仰の象徴とか。山王信仰の総本社、日吉大社(滋賀県の比叡山)でもこの鳥居がたっているとのこと。同じ敷地内にある末社の鳥居は普通の形状。
日枝神社は「少子高齢化社会」世界一速く到来する我が国の国運再生の救世主。すぐ近くにある世襲政権与党には任せられない。 直ぐ去る(猿)ようにと写真撮る。
・御祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)
・相殿に鎮まります神々;国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。
・この神は近淡海国(ちかつあふみのくに)の日枝山に坐す。また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐す。鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり』とあるように、近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まり又、山城国葛野郡(京都市の西端)にも鎮まる神として敬われております。
・御神徳
大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺です。 近年は厄除け、安産、縁結び、商売繁盛、社運隆昌の神として崇敬。
・社格
当神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、将軍世嗣、子女及諸大名等の社参は絶えることなく、毎年正月・6月には使いを遣わして幣を奉り、国家事ある時には必ず祈祷を修し、崇敬他に異なるものがありました。
・東京奠都の後明治元年11月8日准勅祭社に、同2年7月2日祈年奉幣の列に入り、同5年5月8日府社に定められましたが、皇城の鎮護たる故を以て同15年1月11日官幣中社に列せられ、大正天皇御即位にあたり、更に昇格して官幣大社に列せられ、終戦と共に社格は廃せられましたが、宗教法人として都民の尊信を専らにしてかわることなく今日に至る。
・社号
慶応4年(明治元年)6月11日以来、日枝神社の称号、古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」ひろく「山王社」と称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親しまる。
今回の散策のGoogleMap
<https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1vzHVJSaW9GkCH930z3pN8_qo0iP3Oa4&ll=35.699652132443084%2C139.76844530502436&z=14>
元来は、北に位置する本郷台地(cf. 本郷)の南端に当たる「神田山(かんだやま)」という高台(丘)である。
家康が駿府で死去した後、駿府から移ってきた家康付の旗本(駿河衆)が住んだ台地、あるいは駿河国の富士山を遠望できた台地。
二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより、湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となる。神田川を挟んで北側に位置する湯島台とは、聖橋とお茶の水橋により台地上端の標高で結ばれている。
スポーツ・芸術や民意のネットワークで真の平和を!
新発見は塾が昭和7年の第13回箱根駅伝で優勝していたこと。
三越前の地下鉄に展示されている「煕代勝覧」絵巻で 200年前の文化文政の頃は 矢張り江戸は世界一の大都会であったことを実感。
土曜日の昼下がり、丸の内エリアを散策す。通い慣れたる東京駅舎もホームにも新しい発見をす。又
一丁倫敦の三菱一号館から始まった三菱村の隆盛にも目を見張るものがある。
今回の<GoogleMap>
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1CDiPY5OG4lkcdZygIcpiMrCy7ODABWA&ll=35.72689539487303%2C139.55084760000003&z=13
合併した旧保谷市と旧田無市は同じ武蔵野台地にありながら 地形から見ると生まれが違う。
武蔵境駅…(バス「ひばりヶ丘駅」行きに乗車、谷戸小学校バス停下車)
…西東京いこいの森公園
(西東京市最大の市立公園で、2005年東大原子核研究所跡地に開園。広大な原っぱ広場などのほか、自然観察のできる水辺のビオトープ・自然観察池や武蔵野の雑木林の復元を目指した雑木林ゾーンもあり、四季折々の散策が楽しめる。ハンカチノキが植樹)
…発想の森
(住友重機械工業田無製造所の開放公園。40種類4,500本以上から成る森林が保存。休園中でした)
…谷戸せせらぎ公園(明治薬科大学田無分校跡地にUR団地とともに整備された公園。小高い丘から水が流れ、木製の橋のかかった池や手押しポンプの井戸などが)
…尉殿神社
(上保谷村の鎮守。石燈籠は市指定文化財)
…東禅寺
(曹洞宗。六地蔵菩薩立像は市指定文化財)
…如意輪寺
(真言宗智山派。馬駈け市大絵馬は市指定文化財)
(如意輪寺バス停よりバス「ひばりヶ丘駅」行き)
…ひばりヶ丘駅
今回の<GoogleMap>
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=14GaejC0D5NRCvcmxn-EKDPlBHnylCts&ll=35.78813605253649%2C139.25795900000003&z=15
青梅市は武蔵野台地の「扇の要」の位置。青梅駅は標高約200m。奥多摩への入り口でもある。
多摩川が関東山地から武蔵野台地に流れ出る扇頂部に発達した谷口集落が、青梅市街の原型である。
市域のほぼ中央を多摩川が西から東へ貫流し、北部には入間川(荒川水系)の支流である霞川と成木川が、やはり西から東へ流れている。
おおむね東部の平地から西部にかけて丘陵地・山地と変化している。
標高は西端の多摩川右岸にある御岳の鍋割山の1,084mが最高地点、最低地点は市域の北東に位置する成木川の両郡橋下流で103.5mである。
歴史的には青梅街道の宿場である青梅宿が青梅市のほぼ中心に位置する古くからの市街であり、現在の青梅駅周辺である。
しかしながら、多摩川と永山丘陵、青梅丘陵に挟まれた青梅駅周辺はそれほど土地が広くないのに比べ、開けた扇状地にある河辺駅周辺などの青梅東部は開発が容易であり、商業地や人口の増加が進んでいる。
今回の散策は青梅駅を起点としたタウン巡りである。
<今回のGoogleMap>
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1jMXROS3q31_hqiBL9pxNPJ1eeev5_x8&ll=35.72808470249082%2C139.78335131047155&z=15
広重の「浅草田圃酉の町詣」の浮世絵である。
吉原の女郎部屋の上から
・霊峰富士、
・鷲(オオトリ)神社の酉の市に詣でる参拝客の列(林に見える)、
・窓際の猫との間は この一帯は砂州に挟まれた当時は田圃であった。
<今回のGoogleMap>
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1bjcmhJoEKPs8Jys05xIFSNxW1Gog140&ll=35.7313764397653%2C139.74307078168448&z=15
西巣鴨駅から徒歩5分 明治通りに面した掘割交差点に到着。旧中山道をJR巣鴨駅に向かって「江戸東京今昔」散歩スタート。
先ずは明治通りの掘割にある「千川上水分配堰碑」にて 家康の治水事業構想の壮大さを改めて知る。この上水完成は1590年の江戸入府後実に106年後に完成。明治以降の殖産興業の工業用水、灌漑用水としても利用された。
「上水分配堰碑」はこのエリアでは一番の高所であり 当時 東南側の江戸湾を見やれば 点々と「豊かな島」が眺望出来、即ち 武蔵国「豊島」郡の地名の由来となったのであろう。
次は左手に大正大学構内の建学の理念「智慧と慈悲の実践」を具現化した「すがも鴨台(おおだい)観音堂」。その手前に「種子地蔵(たねじぞう)」。ここから通称「種子街道」と呼ばれ 問屋が9軒、小売店が20戸が立ち並んでいたという。
これを過ぎると都電荒川線の踏切を渡る。左手に「巣鴨猿田彦大神庚申堂」。ここからが「巣鴨地蔵通り商店街」が約0.5㌔続く。その中心が「とげぬき地蔵」のある高岩寺。明暦の大火(振袖火事)で全焼したので上野に移転後 明治23年巣鴨の移ってきと言う。早速 ここの仕来たりによりタオルを購入し「身体のトゲヌキ」と同時に「心の棘」も抜き、又「長寿の心得」に得を納める。
「ときわ食堂」でランチ。物凄く回転率の良い食堂(千客万来)で 海老天・牡蠣天・刺身定食を頬張る。お土産に巣鴨名物「みずのの塩大福」を仕入れる。
最後の目的地である 逃げ足の速い徳川慶喜公の居住跡地碑を見学し コーヒーで口直しして 半日の「オバサンの原宿」終了し 巣鴨駅から帰宅。
<散策のGoogleMap>
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1jzOASzOUIO_eEN9ukL5OLJrKFXKWzCk&ll=35.72406094989257%2C139.73130017295043&z=15
谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地、萢(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られる(出所Wiki)。
その事例として茗荷谷駅から後楽園駅に掛けて武蔵野台地を散策。特に文京区エリアは江戸時代からこの地形を巧みに利用して神社仏閣が多数見受けられる。
東西線 早稲田駅下車
…夏目漱石誕生の地記念碑
…誓閑寺(区内最古の梵鐘)
…来迎寺(立派な板碑型庚申塔)
…清源寺(子育て地蔵尊と水子供養)
…感通寺(開運出迎泥足毘沙門天)
…宝祥寺(小説家・塚原渋柿園や夏目漱石初恋の人・れんの墓)
…有島武郎旧居跡
…新宿区立漱石公園
(漱石が明治40年から大正5年に没するまでの9年間を過ごした漱石山房の跡地。
ここで代表作「三四郎」「これから」「こころ」などを執筆。漱石の胸像、猫塚、道草庵)
…新宿区立漱石山房記念館
(漱石山房跡地に平成29年オープン。導入展示では漱石と新宿の関わり、生涯、人物像、家族などを紹介。漱石山房再現展示室では「漱石山房」の一部を再現。書斎、客間、ベランダ式回廊を設置。展示室では漱石作品の世界、漱石を取り巻く人々、漱石と俳句・書画の紹介、草稿・書簡・初版本などを展示公開。観覧料300円)
…多聞院(日本新劇の草分け的女優・松井須磨子の墓、詩人・生田春月の詩碑)
…浄輪寺(江戸時代中期の和算家・関孝和の墓)
…牛込柳町駅(都営大江戸線)
<散策のGoogleMap>
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1FPYkuD4Oq2y5MKdWMTG6aZNz66JMEqM&ll=35.704004762268205%2C139.72392686693416&z=16
小平霊園を源流とする黒目川沿いの武蔵野台地を散策するのは今回で3度目。舌状台地の起伏のある朝霞市から和光市まで約8㌔の工程。
両市とも東上線沿線である。駅前の再開発は致し難いが 里山風情と鎌倉以前の歴史が漂う。
大相撲一月場所12日;貴景勝の霧馬山に3敗目を喫した様子を正面溜まりから写真で追ってみた。
・本日も満員御礼
・立合い前の土俵下溜まりでも 何時もの無表情。
・その隣に向正面審判として二所ノ関(元稀勢の里)が見守る。
・先ずは 呼出し次郎がつとめ
・そして 立行司は第41代式守伊之助が
・いよいよ 貴景勝が土俵に登場
・懸賞金は土俵を5周するほどこの一戦の期待が大きい。
・勝負は一方的に霧馬山の勝ち、貴景勝の何時もの負けパターン。
この時点で本場所優勝と場所後の横綱昇進は絶望的となった。でも・・・・。
11勝3敗の相星対決となった千秋楽結びの一番で琴勝峰を下して自身3度目の幕内最高優勝を果たし、今度の3月場所は綱取り場所。
是非横綱に昇進して大相撲を盛り上げて貰いたい!
優勝が決定した千秋楽の館内インタビューでは「結婚してから初めての優勝なのでうれしいです」「義理の父、(元大関)北天佑関の記録(優勝回数)を超えられたのでうれしい。もっと謙虚に頑張っていきたい」と優勝の感想を述べている。
<取り口の強み&弱み>
短躯肥満の体型を活かした突き押しが持ち味で、立合いのもろ手突きに始まりそのまま突き切るのが貴景勝の勝ち筋とされる。
しかし、一方で四つになると全くと言って良いほど相撲にならず、捕まえられるとすぐに寄られるか投げられるかで負けることが非常に多い。
ガチンコ相撲なので昇進しても短命で終わる。44回も賜杯を手にした手段を選ばずの手口、人望の無い横綱よりずっと良い。
大正6年(1917年)9月の台風の高潮の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定。
江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981年)4月19日に芭蕉記念館を、平成7年(1995年)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館。
芭蕉記念館の裏側には❕
ナント❕隅田川の素敵なテラスが~✌
ほっと一息珈琲たいむによし❗
親子連れの散歩、ランニングコースによし❗
都会のど真ん中に癒しスポット発見で~す。
「超五十連勝力士碑」
深川八幡宮内の横綱力士碑の傍らに建っており、大相撲の本場所で50連勝以上を記録した力士を顕彰。
11角柱の日本の石碑としては珍しい形状を持ち、正面に碑銘、以下左回りで超50連勝力士の名が年代順に刻まれている。現在6名の名が入り、残る4面が余白になっている。
50連勝以上を1回でも達成すれば名を刻まれる権利を得るが、各力士の最高記録のみを刻み込むため、当該力士の引退を待ってから刻名されることになる。
白鵬の63連勝が最新の記録であるが 残っている4面を全て刻む込むのは数世紀掛かるであろう。
一覧[編集]
力士 | 連勝数 | 連勝開始 |
連勝終了 (連勝の最終勝ち星) |
連勝を止めた 対戦相手 |
備考/補足 |
---|---|---|---|---|---|
谷風梶之助 | 63連勝 |
1778年(安永7年) 10月場所8日目[注釈 1] 西小結 |
1782年(天明2年) 2月場所6日目 西大関 |
小野川喜三郎
東二段目3枚目 |
この63連勝は江戸本場所のみの連勝記録であり、京都本場所、大坂本場所での成績も含めると98連勝となる。2分2預16休含む。 |
梅ヶ谷藤太郎 | 58連勝 |
1876年(明治9年) 1月場所8日目[注釈 2] 西前頭4枚目 |
1881年(明治14年) 1月場所8日目 西大関 |
若嶌久三郎
東大関 |
12分2預28休含む。 |
太刀山峯右エ門 | 56連勝 |
1912年(明治45年) 1月場所9日目 東横綱 |
1916年(大正5年) 5月場所7日目 西横綱 |
栃木山守也
東小結 |
1分1預31休を含む。 |
双葉山定次 | 69連勝 |
1936年(昭和11年) 1月場所7日目 東前頭3枚目 |
1939年(昭和14年) 1月場所3日目 東横綱 |
安藝ノ海節男
西前頭3枚目 |
関脇から横綱にかけて5場所連続全勝優勝。 |
千代の富士貢 | 53連勝 |
1988年(昭和63年) 5月場所7日目 東張出横綱 |
1988年(昭和63年) 11月場所14日目 東横綱 |
大乃国康
西横綱 |
大乃国に敗れて連勝記録が止まった一番が昭和最後の一番となった。 |
白鵬翔 | 63連勝 |
2010年(平成22年) 1月場所14日目 東横綱 |
2010年(平成22年) 11月場所初日 東横綱 |
稀勢の里寛
東前頭筆頭 |
一大ターミナル駅である北千住駅地域内には6路線(JR常磐線・東京メトロ千代田線・東京メトロ日比谷線・東武伊勢崎線、京成本線・つくばエクスプレス)での下車は初めて。
北境を荒川が流れる。足立区は河川が運んできた土砂の堆積により形成された沖積低地(湿地帯)であった。
北千住駅東側には海抜ゼロメートル以下の地域あり。1930年(昭和5年)に完成した荒川(放水路)が区内を北西から南東に流れ、足立区を二分し千住地区は南部に相当する。
西側の境界を日光街道が通る。駅周辺には、本町商店街やサンロード商店街、ミリオン通り商店街など10あまりの商店街がある。また、大手スーパーイトーヨーカドーの事実上の1号店は千住店であり、大手釣り具店の上州屋本店もこの千住にあった。
千住は銭湯が多いことでも知られ、夕方には煙突から煙が出て独特なにおいが辺りに漂う。
近年、東京電機大学が神田から北千住に移転してきたことで若者が増え活気が出てきた。この他、東京藝術大学や帝京科学大学、東京未来大学などのキャンパスもある。
1594年、徳川家康が墨田川に架けた最初の橋が千住大橋であった。このことからも千住が江戸の北の入り口として重要視。
千住は日光街道・奥州街道の宿場として発展した。江戸から一つ目の宿場(約2里で、江戸四宿の一つ)。元の千住宿は1-5丁目に分けられて本宿、最初に追加された3町は新宿、対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれていた(→千住宿)。
いわゆる「岡場所」の一つであり、当時の船頭たちが歌った「千住節」の一節「千住女郎衆はいかりか綱か 上り下りの舟とめる」というのはこれを指している。
また江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点(日光・東北方面への旅人で賑わった)。
松尾芭蕉の奥の細道は、元祿2年(1689年)深川の芭蕉庵を出発し、「門人に見送られ、彼等と千住で別れる時に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠み、それを「矢立てのはじめ」として、そこから旅が始まる」という。
<散策のGoogleMap>
https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1Jhxche0UyYcv6clmJC7s7mnGIj75kvQ&ll=35.67593139973073%2C139.79300474999997&z=14
<コース>
深川七福神は今も下町情緒を残す深川地域を巡る七福神。明治末期ごろに始まり親しまれてきたが、戦後一時中断、1970年(昭和45年)に復活した。
森下駅
…深川神明宮:寿老神(慶長元年創建の深川で最も古い神社。深川の地名発祥のお宮)
…深川稲荷神社:布袋尊(寛永7年創立の歴史のある神社。地元町会が管理運営)
…龍光院:毘沙門天(火事に遭い天和2年現在地に移転した際、鬼門除けとして境内に毘沙門天を安置)
…圓珠院:大黒天(江戸中期創建。祀られている木像の大黒天は江戸時代から「深川の大黒様」として親しまれてきた)
…心行寺:福禄寿(元和2年創建の由緒ある名刹。境内には江東区最古の五重の塔)
…冬木弁天堂:弁財天(木場の材木豪商が邸内に弁財天を安置。関東大震災で焼失したが、昭和28年に再建)
…富岡八幡宮:恵比須神(江戸時代から「深川の八幡様」として親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める江戸最大の八幡様。境内には伊能忠敬の像や石碑、巨大な横綱力士碑など見どころが多い)
…門前仲町駅
散策のGoogleMap
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