栃木市が 江戸時代以降 商都として発展した大きな要因として
①現・栃木市内には日光東照宮への例幣使街道(道)の4っの宿場(富田宿、栃木宿、合戦場宿、金崎宿)あったこと。
②栃木市は巴波川(うずまがわ)を介して舟運のターミナル舟着場(河岸)の立地条件(江戸日本橋から隅田川、小名木川、新川、江戸川、利根川、渡良瀬川経由巴波川に入り栃木迄 舟運の便あり)であったこと。
③これに加えて 18世紀後半の寛政時代頃より幕末にかけて 栃木の豪商たちが 江戸から当時の文人(浮世絵師、書家、水墨画絵師、狂歌師等々)を食客として呼び寄せ 豪商たちが栃木市を小江戸文化都市として 結果的に 発展せしめたことであろう。
④これに加えて「蔵の街」になったのは 幕末に水戸天狗党が栃木市街を焼き討ちにした為 商人が こぞって自衛上 蔵に建て替えたことによる。
・例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年恒例の捧げものを指す金幣を納めに派遣された勅使のことである。例幣使は、毎年4月1日に京都を出発し、中山道との追分である倉賀野宿(高崎市)を起点とした例幣使街道(総延長109㌔、この間21ヶ所の宿場)を経て日光に向かう。4月15日に日光に到着したのち、翌朝に東照宮に捧げものを納め、そのあとは江戸にまわって将軍に対面してから京都へ帰ることに決まっていた。その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。
・現在、日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、足利市、太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。例幣使街道全体はGoogle Mapをクリックして参照。
・栃木市には富田宿、栃木宿、合戦場宿、金崎宿と4っの宿があり。小平家の屋敷は 現在の合戦場郵便局の前の街道沿いにあり。合戦場宿のあった東武日光線合戦場駅前から郵便局あたりまでは 大正時代ごろまでは遊郭であった。
合戦場宿の郵便局前が母の生家。
栃木市内にある富田、栃木、合戦場、金崎等の各宿場にかけて、数日間 例幣使そのものは五十人ほどであったが、二,三百人の供人を引き連れていた為、その他荷物、馬車等を含めると 大掛かりな行列であった。
而も各宿場で宿泊又は休憩するので、接待費その他の費用の五分の一の金額を支払ったのは上々の方で、その上 彼等及びその荷物を次の宿場まで送りこまねばならず沿道及び宿場の人々は迷惑千万だった模様。今で言えば”優越的地位の乱用”である。
要は”たかり”である。合戦場郵便局北側にある「ゆすり(揺すり、強請り)」の語源の立て看板がある。
一財産出来たと云われる例幣使公家の金儲け手段の記録から。
●御供米…出発前菊の紋章付き袋に少量の米をいれ各地で病気の特効薬として販売する。(用意数量8万袋程度)
●長持ち潜り…天皇の奉納御幣を入れた長持ちの下を潜らせ厄除けと称して奉納金を集める。
●宿場毎の御祝儀集め…難題を掛けられない為に人数分の御祝儀を各宿場から渡す。
●古い金弊を刻んで配る…前年の御幣を裁断して各藩江戸藩邸に持ち込み、家康公御神体として配り奉納金を集める。
●長持ち等の大量運搬…荷物運びの馬、人足の数を幕府に過大申告して上方商人の下り(江戸行き)荷物を内緒で運搬収益を得る。
●幕府から過分の例幣使手当が公家に支給される。
栃木市の発展に大きな役割をはたしてきた巴波川(うずまがわ)の舟運は元和3年(1617)、徳川家康の霊柩を久能山から日光山へ改葬した際、御用荷物などを栃木河岸に陸上げしたことにはじまる。
その後、物資の集散地(栃木河岸からは江戸への廻米、鍋山石灰、江戸中期頃からは菜種、明治期には麻ひも等商品作物)として、部賀舟(べがぶね)が往来し、江戸との交易を盛んにした。
巴波川舟運の発達により、東京、埼玉、千葉、茨城などへの物資輸送だけでなく、関東と南東北の流通を結ぶ結節点として、問屋業、製造業発展を支えた。幕末期から昭和初期に栄えた問屋町、北関東の商都と呼ばれた栃木市を支えたのは巴波川(うずまがわ)の舟運である。
栃木河岸から渡良瀬川に合流する2㌔手前に現在の栃木市藤岡町に巴波川を挟んで部屋・新波地区があり この両岸が積荷の中継河岸となっていた。江戸方面からの荷物は大船(高瀬船)でこの両河岸まで送られ、この中継河岸で小船(「部賀舟(べがふね)・全長13.5m」)に積み替えられ 栃木河岸まで運んだ。部賀舟の名前の由来は「部屋」地区の「部」と「下都賀」地区の「賀」の合成語か?
栃木河岸から部屋河岸までの全長19.25㎞の巴波川について「下野一国」(慶安4年、1651)では 栃木から部屋河岸迄 水幅10間(約18m)、水深2尺~3尺(約60~90cm)とあり、部屋から栃木まで水深が浅く、底の扁平な吃水の浅い舟しか遡航できなかった。それでも部賀舟で米50~120俵(中型高瀬船で500俵)を運ぶことができたと言う。
この部屋・新波地区の水運は明治の半ばまでは活況を呈していたが、交通手段の発達で衰微。
詳しくは「銀次のブログ」参照。
部賀舟
高瀬舟
蔵が立ち並ぶ巴波川沿いの曳道
かつては、湧水もあり流れも速かったため、江戸からの帰路は麻綱で舟を曳いてきました。川沿いの曳道が綱手道です。川沿いには甍を並べる舟積問屋や豪商の倉庫が当時の面影を漂わせています。川の両岸には多くの舟積問屋や豪商がいらかを並べていたといわれ、入舟町(いりふねちょう)、湊町(みなとちょう)などの地名とともに白壁土蔵が所々に残され、往時の姿を今に伝えています。
左の写真は 栃木駅北口から大通り起点となる室町の交叉点である。この手前に巴波川が横断していて橋の名前は「開門橋」。前日に雨が降ったので水量は増していた。
この先左側に山口材木社長のご自宅が昔の俤を残したまま健在。江戸の典型的な間口が狭く胴長の敷地。
松平定信の寛政の改革を批判した代表的な狂歌である【白河の清きに魚も住みかねて もとのにごりの田沼恋しき】で代表される寛政の改革は 貧乏或いは駆け出しの文化人・知識人にとっては江戸は住み辛く こぞって江戸を脱出。当時の栃木の豪商達は彼らを「食客」として受け入れた。「食客」とは 相撲界隠語で言えばタニマチ、英語で言えばパトロンに面倒をみて貰った文化人であろう。その代表が浮世絵師であり春画絵師 又筆綾丸名の狂歌絵本師の喜多川歌麿(宝暦3年(1753年)頃生? - 文化3年9月20日(1806年10月31日没)である。
曾祖父の惣八の実家は商家であったので「客人」を受け入れていたのであろう。真贋の程は定かではないが 小生宅にも「谷文晁」の水墨画が一幅ある。
栃木の豪商善野家の依頼で制作された「品川の月」(1788年)、「吉原の花」(1791年)、「深川の雪」(1802年)は肉筆着色の大幅である。
下の浮世絵は「吉原の花」(1791年頃)。
<下記3幅は 最近 栃木の旧家から発見されたもの。とちぎ蔵の街美術館蔵>
◎<釜芳> 伊藤芳次郎
・倭町の肥料、砂糖商等。大正時代には全国に16店舗あり。統制経済になると販売網を失う。綿投機で失敗。
◎<釜金> 大塚金兵衛
・室町の呉服商、金銭貸付業。3代目金平衛は33歳で栃木商業会議所会頭。第41銀行監査役、栃木商業銀行頭取、加満屋銀行頭取。
◎<釜佐> 善野佐次平
・萬町の江戸時代からの質屋。栃木倉庫銀行監査役・小山銀行監査役。栃木銀行の母体となる富源無尽㈱を創業。
前任の老中、田沼意次の失脚後、松平定信は新しく老中となり幕政(寛政の改革)を担うが 6年で挫折。松平定信が行った政策は、主に次の5つ。
15代将軍慶喜が元治元年(1864年)に将軍後見職を辞任し禁裏御守衛総督に就任したとき3,500人いた(大半は水戸藩出身)部下は慶応4年(1868年)には900人になっていた。差の2,600人は幕末の動乱(桜田門外の変から戊辰戦争まで)で落命したり、武士を棄てた者であるが、大半は天狗党の乱で落命している。この乱の悲惨さは加わった者の家族・係累まで徹底して殺戮されたことである。天狗党に参加した者は武士は勿論、商人・農漁民・神官等が郷士として参加。
勝てば官軍。薩長土肥の軍門に下り 明治に入ってから新生日本を牽引する政治・経済界で活躍した水戸藩出身者は殆ど皆無。戦前の就職先は警官か汽車や電車の運転手。
幕府を裏切った慶喜の責任は大きい。自分だけ官軍に恭順し長命で安逸に余生を送った。徳川家からも見放され、将軍として埋葬されるべき寛永寺にも増上寺にも入れず、一人寂しく上野の谷中墓地で惰眠。でもお墓は立派である。
今でも茨城県が全国の魅力度のメーカー(第47位)である。メーカーは天狗党の乱から150年も継続中。