本稿は荒木一雄さんが平成4年4月に取り纏めた資料に基づいています。
「姓氏家系大辞典」太田亮著に『三河の安達氏、三河国に安達右馬助あり。渡刈城(とかり)の城主なりき。当国守護安達氏の後裔と称す。同郡に足立氏もあり』と言う記載あり。
【注】 足立氏は 安達氏と時と場合によって姓を使い分けていた可能性もあり。何れにせよ戦国時代には三河国に居を構えていたことは間違いないようである。
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<渡刈(とかり)城に関してHPに下記記載あり>
・渡刈城は、矢作川右岸に面して豊田市幸町の祐蔵寺境内と鹿島神社辺りに築かれていた。城と云っても居館程度の規模と推測され、寺と神社の周りを散策すると境内の周囲にある水路が堀の名残かと思われて仕方がなかった。渡刈城は、築城年代や築城者は定かでないが、城主として深溝・安達・近藤氏の名が伝わる。
・1460年頃、11代鎌田光頼の時、鎌田氏を称していたが、深津氏に改称して初代となる。藤原重次を経て、深津正次の時、1563年「三河一向一揆」で家康に従事したが、佐々木にて討死。次の政利は、松平宗家8代広忠、9代家康に仕えたと云う。1586~1615年岡崎藩領になる。城跡は矢作川の洪水によって埋没、鹿島社、祐蔵寺辺りと云われている。
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譜代大名足利戸田藩(石高;1.1万石)は,三河国田原藩戸田氏の流れである宇都宮戸田藩(石高;7万石)から分家し、明治以降東京に引き上げる迄 約160年余、禄高が加増されるに伴い、禄高に相当の軍役を幕府より命じられる為、数多くの藩士をを新たに召し抱えた。足利戸田藩には城はなく 藩士は陣屋(足利雪輪町)に住み、藩主は江戸住まい。藩士構成由来は
1、三河国田原藩戸田氏の流れである宇都宮戸田藩より分家の際 付けられた者。
2、江戸で召し抱えられた者。親類筋の大名家の家臣の2,3男、藩士の旧友で先祖の由緒書で召し抱えられた者。
3、足利戸田藩が大名として領した現在の足利・栃木・埼玉等で先祖の由緒書で召し抱えられた者。
4、途中で退藩した者で 再度藩士として召し抱えた者。
5、その他
では 足利藩士の足立氏は何時頃から三河国田原藩戸田氏に召し抱えられたのか?
結論から言うと どうやら宇都宮戸田藩より 分家の際付けられ 足利に移って来たと推定される。
三河国 田原藩(藩祖尊次)の戸田氏の系図を見てみよう。
戸田氏は三河の在地勢力であり、最終的には家康に仕えて、江戸期には大名として三系統があった。
すなわち
・二連木戸田家(松平戸田家)、
・田原戸田家、
・大垣戸田家であり、
足利藩主の戸田氏は、このうちの田原戸田家の分家である。
<http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/shimotsuke-ashikaga.html>をクリックすると判ります。
徳川時代の足利藩は 元禄元年(1688年)<本庄家>が立藩 その後 宝永2年(1705年)<戸田家>が足利藩を引き継いだ。
1、<本庄家時代>;本庄宗資が元禄元年(1688年)に足利藩(1万石)を立藩する。宋資(はじめは公家の家臣だった)は第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の異父弟にあたるが徳川将軍家との特別な関係のために加増が繰り返され、宗資にはその後も贔屓の加増が繰り返され、元禄5年(1692年)、本庄邸への二度目の“将軍お成り”の際に4万石に加増されて常陸笠間藩へ移封された。足利藩には1代限り5年弱の統治である。
2、<戸田家時代>;宝永2年(1705年)1月、将軍世子である徳川家宣の御側役を務めていた戸田忠時が甲斐国内8千石から3千石加増の上で下野国足利郡・河内郡・都賀郡1.1万石を領することとなったため、大名に列して足利藩を立藩した。以来廃藩置県の明治4年(1871年)藩主忠行まで8代約160年余続いた。
下記写真は中野区早稲田通り沿いにある松源寺である。戸田家の菩提所である。累代の藩主の墓誌がある。
偶然にも 親戚関係はないが 足立家と小平家のお墓があった(余談)。
初代忠時は 寛永14年(1637年)、御小姓組番士200俵取りの旗本戸田忠次(宗兵衛、慶長2年(1597年) - 寛永17年3月3日(1640年4月23日))の次男として生まれる。
忠次は 三河田原藩 初代藩主戸田尊次の五男であった。藩主は兄忠能が継いでいたが、忠能には子がなかったため、忠次の長男忠昌を養子に迎えてた。そのため、寛永17年(1640年)に忠次が死去した際、次男の忠時が4歳と幼少ながらもその跡を継いだ。
延宝8年(1680年)、目付となり従六位に叙される。天和2年(1682年)の正月には伏見奉行を拝命し、1,000石の旗本となる。天和3年(1683年)の12月に従五位下・長門守に叙位・任官する。貞享3年(1686年)、小姓組番頭となり、元禄2年(1689年)7月には甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)に附属され家老となり、8,000石に加増された。綱豊が5代将軍徳川綱吉の継嗣となり、名を家宣と改め江戸城西の丸に入ると、忠時も召しだされ、御側衆として再び幕臣に復帰する。
宝永2年(1705年)、老齢のため供奉を免ぜられたが、3,000石の加増を受け、下野国足利郡・河内郡・都賀郡の3郡のうち1万1,000石に封ぜられて足利藩を立藩した。官位も大炊頭に遷任し、従四位下に昇叙し、徳川綱吉から朱印を賜る。
宝永5年(1708年)6月29日、家督を四男・忠囿に譲って隠居する。正徳2年(1712年)7月24日に死去した。享年76。
① 足利市史第3巻P477に 年は不詳であるが「戸田家三地御家中宗旨控帳」に松源寺関係家中(禅宗の分)として <・山田勝次・生沼録助・生沼銀次郎・足立岩蔵> が記載されている。
足立岩蔵とは至徳の本名で 戸田家が版籍奉還する頃まで名乗っていた。藩主の移住する時、自分の菩提寺がない場合は藩主と同じ寺に決める場合が多いと言われている。
② 生沼家文書によると 元々生沼家初代(生沼五郎兵衛重次)は三河国田原城主の藩祖尊次に仕えていた。 寛永17年(1640年)2代目三河国田原城主(のち宇都宮城主)忠能の命により 足利2代藩主忠時に仕えていた。
⓷ 2代目宇都宮藩主忠昌時代史料「分限帳」「田原御家中知行御扶持切米取覚」(承応3年(1654年))の記録に 足立氏と山田氏あり。
・五石二人扶持:足立九太夫
・三石五斗二人扶持:山田弥右衛門
④田原分限帳(承応年間から寛文・延宝年間に(1652~1680年)には 家臣の中に 足立九太夫、山田五兵衛の記載がある。
以上が 戦国時代から徳川幕府前期までの足立氏に関する記録である。
陣屋、鑁阿寺、足利学校の位置・広さが判る。出典;「足利織物沿革誌」より
【注】足立氏の記録は 足利戸田藩が立藩(1705年)されてから140年余間 歴史の舞台から消えてしまった。藩主の戸田家分限帳には勿論 残されている有力家臣の各種文書にも記録が残されていない。この理由は 藩士としては最下級の足軽レベルであった為と思われる。歴史記録に再登場するのは 岩蔵(至徳)の父平右衛門(寛政5年(1793年)生まれ)からである。
① 足利藩研究会史料調査報告第22集
・岩蔵(至徳)は天保11年(1840年)9月13日、足立平右衛門源尚久の長男として生まれる。
【注】父平右衛門が47歳の時の子供である。
② 森下家文書によるには 下記記録が残っている。
・嘉永6年(1853年);御足軽 足立東太(足利陣屋詰)
【注】この文書には平右衛門・岩蔵(至徳)等足立氏の記載は見当たらず この記録作成時期 足立氏は江戸詰だったと思われる。この二人は親戚筋と思われる。
⓷ 高橋家文書
・安政2年(1855年);名跡相続被仰付 金六両二人扶持、外に御役金一両
御用人支配 御中小姓格 被仰付 奥御用達 足立平右衛門
【注】江戸時代初期には、用人職を設置しなかった藩も珍しくなかったが、泰平の世となり、いわば事務屋・連絡役・折衝役としての性格を持つ用人は、ほぼ全国諸藩に設置されるようになった。また、側用人と未分化の藩も存在した。大きな藩では、用人の地位は重臣とは言えず、藩主・老職などの公的な用向きを関係方面に伝えて、折衝して庶務を司ることを役目とする。小さな藩では、用人は家老に次ぐ重臣であって、家老の職務全般を補佐していることが多い。時には用人身分のままで加判の列に加わることもあった。但し、江戸時代中期以降は財政難の為か大きい藩においても物頭や番頭、江戸留守居が用人を兼務するところもあり、藩によっては物頭用人や番頭用人、小姓頭用人が存在する場合もある。用人の地位は、全国諸藩においてまちまちであるが、大雑把に云って、大藩であるほど上級家臣の中でその地位は相対的に高くなく、小藩であるほどその地位は相対的に高い傾向があることは疑いがない。諸藩の用人は、いずれも馬上を許された上級家臣である。また、諸藩に仕えたの高禄の重臣は、その家臣として陪臣身分となる用人を召し抱えていた。平右衛門の58歳の役職は「御用人支配 御中小姓格」で 家老に次ぐ 藩の裏方を担当する今の会社の職制で言えば 取締役総務部長。従って 住まいは 足利陣屋ではなく家族共々江戸詰だったと思われる。
④ 本島家文書
・安政3年(1856年);8月16日藩主戸田忠文死去に伴い松源寺に詰める 足立平右衛門
【注】藩主の葬儀は松源寺で挙行。その葬儀を平右衛門が支配(仕切る)したものと思われる。
⑤ 高橋家文書
・安政5年(1858年);御用人支配 御中小姓格 被仰付 奥御用達 足立平右衛門(65歳)
⑥ 本島家文書
・文久元年(1861年);本島勇蔵3女と岩蔵(至徳)と婚姻相整い、9月18日嫁入り。
⑦ 足利市史第3巻P981
・文久3年(1864年)6月;御大小姓席 高30俵 足立平右衛門
御部屋住御徒士席 高15俵 足立岩蔵(至徳)
・文久3年(1864年)7月11日;足立平右衛門死去(享年71歳)、岩蔵(至徳)は24歳。
【注】足立平右衛門は亡くなる1ヶ月前に「小姓」席が中小姓から大小姓に昇格、同時に岩蔵(至徳)も徒士席に昇格している。これは平右衛門の藩主身辺警護に対する貢献に報いたものと思われる。この時期頃から 岩蔵(至徳)が活躍するチャンスが巡って来る。
⑧ 本島家文書
・慶応3年(1867年)藩主戸田忠行 1月より6月迄大御番頭として江戸城二の丸に御泊。これに伴い岩蔵(至徳)も半年間 江戸城に出仕する(出仕場所は 二の丸御当番詰、二の丸御助番詰、西丸詰、公用方部屋詰)。
⑨ 足利藩研究会史料調査報告第22集
・慶應3年(1867年)10月;長男 勧太郎誕生 至徳28歳
⑩ 三芝朝次郎氏旧蔵史料、菊地卓著「足利藩」
・慶應4年(1868年)5月21日;戸倉戦争勃発、上州利根郡戸倉へ出兵(戸倉戦争)。岩蔵(至徳)は金穀方で出兵。
【注】この時期 至徳は 金穀方で出兵したことは この時期事実上 家老格までの責任者になったものと思われる。
これ以降の至徳の活躍は「4-7 至徳(岩蔵);明治時代の活躍」につづく。
・慶應3年(1867年)10月21日;朝廷による1万石以上の諸侯上京命令に対し 藩主忠行は「召命を辞退」。この時期 忠行は「大御番頭」として幕府の要職に就いていたことと この時期未だ 下野の諸藩が佐幕の姿勢を崩していなかった。従ってこの年の11月の「出流山挙兵事件」に対して 幕命に従い積極的に鎮圧行動をとっている。
「出流山挙兵事件」とは 慶応3年10月14日に大政奉還がなされたが、あくまでも武力倒幕に拘る西郷隆盛は幕府を挑発すべく、浪人を集めて各地に派遣した。その一隊が栃木の出流(いずる)山満願寺で挙兵し、付近の農民などを集めて義軍をなし、唐沢山や大平山、岩舟山などに拠った。幕府は足利、館林、壬生の三藩に出兵を命じ、一千余名の討伐隊によりこれを鎮めた。
・しかるに翌慶應4年(1868年)1月3日の戊辰戦争「鳥羽・伏見の戦い」で幕府軍が敗退し 江戸に逃げ帰った将軍慶喜が同年2月12日寛永寺に蟄居し恭順の態度にでた為 急遽 家老相場杢左衛門を京都に「天機奉伺内意伺書」を持たせて派遣し 勤皇恭順の工作をし「 忠行は病気のため」と称し、名代派遣の形にして同書は受理された。
・片品村は 会津藩・奥羽越列藩同盟軍側と新政府軍(東征軍)双方の中間に位置しており、当時会津街道が通る物流の要衝であった為、図らずもこの衝突に巻き込まれた。当時 戸倉には関所があり、ここを舞台に両軍が衝突したのが戸倉戦争である。
・足利藩は先発隊として総勢40名で出陣。古仲地区の大圓寺に本陣を置き、各藩(9藩、総勢約890人)が近隣民家に宿陣していた。岩蔵(至徳)は金穀方として兵站を担当していた。
・新政府軍は会津側の動きを警戒していたが、5月21日早朝 会津軍勢から攻撃を受け、応戦するも防けず、仙ノ畑方面に退却。戸倉村先発隊の足利藩士・今井弁輔(辨助)、大圓寺本陣警護の吉井藩士・伊東長三郎は鉄砲を撃ち掛けられ戦死、又 戸倉地区では32戸中31戸が焼かれた。
【注】戸倉戦争は 戊辰戦争の局面の一つであるが 一般に呼ばれている会津戦争には含まれていない。又 本稿の出典;「参考;上州片品村 戸倉戦争とは」は「戊辰戦争と片品村」(公民館事業・片品村の歴史探訪シリーズ第2回講演テキストPPT)による。
① 本島家文書
明治2年(1869年);9月4日 元〆(元締め) 足立至徳(岩蔵)
【注】至徳が「元〆」(元締め)となったことは 足利藩の「家老格」に上り詰めたと思われる。
② 足利市史第1巻P926
明治2年(1869年)6月23日;足利藩 版籍奉還
藩主 戸田忠行 足利藩知事に任命
明治2年(1869年);足利藩政を改正 出納史 足立至徳(岩蔵)
④ 足利市史第5巻P934
・司計 金穀 大属 足立至徳(岩蔵)
⑤ 明治4年(1871年);廃藩置県
・7月14日 足利県となる
・7月15日 戸田忠行藩知事免職
・11月14日 足利県は栃木県に併合
⑥ 明治5年(1872年);足立至徳(岩蔵)雪輪小路49に屋敷(長屋?)を構える
【注】この時期の東京(江戸)から 引越してきたのか。
明治9年(1876年);雪輪小路の屋敷(長屋)焼失
⑦ 足利市史第4巻P99&P734
明治6年(1873年);戸長(こちょう)足立至徳(岩蔵)(戸長1人、用掛6人、(?)2人、小使3人)
【注】戸長(こちょう)とは、明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと
明治6年(1873年)5月;戸長:足立至徳(旧足利藩士)、副戸長:安田義質(旧足利藩)、
用掛:酒巻種三(旧足利藩士)、上岡正直(旧足利藩士)
【注】至徳が 足利町「戸長」に推挙されたことは 行政手腕を評価されたのであろう。
⑧ 栃木県史
家禄奉還願い;米九石五斗 足立至徳(岩蔵)
【注】維新政府は明治6年(1873年)12月に布告した家禄奉還規則によって、希望する士族にたいして世襲家禄は6年分(一代限りの家禄は4年分)に相当する金額を、半分は現金で、残りを8分利付公債(秩禄公債)で交付することによって家禄の解消をすすめようとした。これは士族が農工商業に転ずるための資金を与えるという名目で行なわれたので、「仰資奉還」ともいわれる。至徳は「米九石五斗」の願いを出し 今の貨幣価値で約1,600万円(半分は現金、残りは秩禄公債)。然し乍ら 窮迫した士族はこの秩禄公債を商人や高利貸に直ちに売り払うものが多かった。
⑨ 足利市歴史研究紀要第1集「三代目木村半兵衛の日誌」ー「学区取締」としての活動ー
明治6年(1873年);学区取締 足立至徳(岩蔵)
【注】学区と学区取締; 新政府にとって学校の普及は喫緊の課題。学区は学校設置の基本区画であるとともに、教育行政の単位。そこで中学区には学区取締を置くこととし、各中学区に10人ないし12,3人をおいて、各学区取締は20ないし30の小学区を分担し、これを指導監督させることとした。学区取締には土地の名望家を選んで地方官が任命することとし、担当学区内の就学の督励、学校の設立・保護、経費のことなど学事に関するいっさいの事務を担任した。
栃木県には合計9区の大区が置かれ 足利エリア(第6大区)は 木村半兵衛(小俣村 平民・戸長)と至徳(足利町 氏族・戸長)が選任された。
木村家は幕末~維新期 両毛地域の豪商(織物の買継商)で 特に三代目半兵衛は明治2年から明治19年54歳で亡くなるまで 激動の時代 偉大な経世済民の士として 政治・経済・社会・文化等全般に亘り栃木県全般でも活躍した。6歳下の至徳の学識と行政手腕を高く信頼し 常に行動を共にしていた。
尚 三代目半兵衛は 第41国立銀行の創設(明治11年)・頭取に係わる。後日 小平儀平が第一高等学校を中退して 下級事務員として就職したのが 第41国立銀行の栃木支店。これもご縁か。
【注】学区取締の月給と手当;至徳の明治7年の月給は5円、旅費手当は1日に付30銭。戸長をしていたので月給は半額支給。戸長の月給をいくら貰っていたのか判らないが 当時の1円を今の価値に換算すると2万円としても実質5万円の収入。木村半兵衛は豪商だったのでボランティアでも良かったが 貧乏氏族の至徳にとっては結構厳しかったと思われる。出典は;足利市歴史研究紀要第1集「三代目木村半兵衛の日誌」ー「学区取締」としての活動ーp55ー
⑩ 旧足利市史
明治21年(1888年)7月5日;戸長 足立至徳 没 享年49歳 法名:黙宗橙然居士 法楽寺
⑪ 蘭交会記録(法楽寺所蔵)
明治22年(1889年)1月;起業資本金御拝借願い 足立勧太郎(至徳の長男)
【注】蘭交会は旧足利藩士の親睦会(戸田忠行主催)。長男勧太郎は父至徳が亡くなった時は21歳。収入が途絶えたので「起業資本金御拝借願い」を元藩主に願い出たものと思われる。どのような業種に進出しようとしたのか記録には残っていない。(勧太郎は慶應3年(1867年)生まれ 明治29年2月29日(1896年没)享年29歳)。
⑫ 明治29年(1896年);二男亘(22歳)が戸主となる。巻島氏に印刷術を学び 現在の桐生市の愛燐堂と言う印刷屋に丁稚奉公。のち独立して 足利市で太平堂と言う活版印刷所を起業し 家業とする(場所は足利市4丁目と5丁目通り)。
足立氏は 平右衛門以前は下級藩士であったことにより戸田家の史料や有力藩士の古文書に記録が残っていない。又 明治9年陣屋の長屋が焼失したことにより 個人の一切の古い書類も焼失したものと思われる。
然し乍ら当時としては長命であった平右衛門は 職制としては中級以上の大小姓になり、江戸住まいの藩主の身辺警護をしていた。
その長男至徳(岩蔵)は 最後の藩主忠行が御大番頭として江戸城二の丸に詰めた時 一緒に入り身辺警護の面倒を見ていた。翌年の戸倉戦争出兵では金穀方の責任者を任され 藩の財政を取り仕切っていた。明治維新の混乱期になっても 明治2年藩の出納史、明治6年には戸長、学区取締兼務し 行政、教育指導に 敏腕を奮っていた。やはり至徳(岩蔵)は 足立氏の中興の祖と言っても過言ではない。
然し乍ら 三男亘は14歳の時に父至徳が亡くなり 頼りにしていた兄勧太郎が29歳で早逝した為
当時の新規事業の印刷業が軌道に乗るまでは 子沢山(3男6女)・武士の商法と相まって苦労の連続であった。(以降は「両親のものがたり」に続く。
曹洞宗正義山法楽寺は足立家の菩提所。
1249年(建長元年)に、足利義氏によって建立。両崖山を主峯として南端の機神山まで・・・北から南に連なる高さ100メートル前後の山丘の一つ、鏡山の山ふところにいだかれた山麓にあり、寺の山門は東面している。即ち、西が高く、東が低くなる山麓の斜面に墓地が作られている。一段下がった境内の南部に鐘楼、東端に山門が建ち、山門から石階を下りて直線状に参道がつづき、寺の入口の北隅に石標が建っています。1860年(万延元年)に境内木小屋からの火災により、大門をのこし本堂、庫裡、土蔵までを消失。1868年(明治元年)に再建 (住僧天忠和尚)現在の本堂は1983年(昭和58年)に建立 (圓證洋雄和尚)
足立家のお墓の写真は下記写真の通り。祖父・祖母の墓石まではあるが 曾祖父の至徳、その前の平右衛門の江戸時代の墓石は無縁墓の如く片隅に積み上げられていた。この状態は子孫の一人としては残念であるが これも家族制度の崩壊でしょうがないか? 時代の流れか?
松源寺は別名「猿寺」と言われている。名前の由来は「猿の恩返し」と言う江戸民話からである。民話の要旨は検索しても 既に消去されているので下記の通り。
【江戸民話:猿の恩返し】
昔、あるお寺の庭に、何処からか1匹の猿がやってきた。木から木へ飛び移ってり和尚さんが大事にしている盆栽をひっくり返したり、それは、それは、いたずらな猿だった。
小僧さん達は「和尚様に見つかると、この悪戯は、おまえたちがやったのかとしかられるにきまっとる」「そうじゃ、そうじゃ」と、みんなして、お猿を追いかけたんじゃ。
お猿は、あっちへ逃げ、こっちへとび、そのたびにお茶をひっくりかえすやら、障子やふすまに穴をあけるやら・・・・・そんな悪戯が、猿の気にいったのか、それからというもの毎日の様に寺にあらわれ、小僧と遊び戯れておった。
ある日のこと、和尚さんは法事があるので、町の方へ出かけていった。すると小僧さんたちが集まって、「なんとしても猿をつかまえねば」「ほんとに、憎らしい猿じゃ」と相談して、みんなで策をたてて、猿をつかまえることにした。「いいか、わしが猿を部屋の中に誘きよせるからな」「よーし。そしたら俺が戸をしめる」「ワシは台所からざるをたくさん、用意しとくから、ざるをかぶせて生け捕りにしよう」
「よしきた」というわけだ。そんなこととは知らない猿は、いつもの様に寺の庭に遊びにきた。そしてまんまと捕まってしまった。小僧さんたちは、台所で湯をぐらぐら沸かすと、猿を入れて煮てしまおうと考えた。いよいよ猿を入れようとすると、そこへ和尚さんが帰ってきた。
そして、「これこれ、何をするんじゃ。猿だとて生き物じゃ、逃がしてやりなさい」と、言ったが、小僧さんたちは、「和尚さまの云い付けだが、この猿は悪戯で、いままであったことは、みんな猿がしましたじゃ」「逃がせば、また、わしらがあとで叱られるから、いやじゃ」というわけだ。
困った和尚さんは、「それなら、わしに譲ってくれ、けっして山に逃がさんから・・・・」といって、猿を引き取った。和尚さんが、猿を寺で飼い始めるとどうじゃ。どこからどう伝わったのか面白い猿がいるというので、たくさんの人が猿をみにくるようになった。
ところが、物好きな人もいて、「和尚さま、その猿を譲ってくれませんか」ということで、猿は三つも四つも離れた村に貰われてしまったって。
と それから、何年かたった。春のある日のこと。和尚さんは、村の人に誘われてお花見に行くことになったんだって。櫻の花は満開だし、お酒によった人たちが飲めや歌えの大さわぎ。そんな中で村人が、「なあ、みんな、お花見なんだから、船に乗って川下りと洒落てみねえか」と、呼びかけた。酔った勢いで、「そりゃ、面白い」「わしもいく」「和尚さんも行きませんか・・・」と、いうことになって、1そうの船がしたてられた。小さな船に、どんどん、どんどん村人がのりはじめた。
和尚さんも誘われるままに船に乗ろうとすると、どこから現れたのか、1匹の猿が、和尚さんの裾をひっぱるではないか。「変なことがあるもんだ。何か用があるのかも知れん」と、乗らないでいると、そうこうしている間に舟は岸を離れてしまった。
和尚さんが残念そうに見送っているとまもなく、舟は川の中ほどに漕ぎ出され、酔った勢いで、多くの人が乗ったためか「あっ」という間に転覆し沈んでしまった。
それを見た、和尚さんは、「ははあ、わしが泳げないのを知っていて猿が助けてくれたんじゃな。これは、何年か前に命を助けたお礼というものだ」
猿の恩返しということで この話がぱっと噂として広がった。寺の本当の名は知らなくとも「猿寺」として江戸中に有名になったそうだ。
今は、道路拡張でその頃の在であった中野の方に移ったということじゃが・・・・・
以上